本サイトの全記事です。章ごとに並べています。
年譜
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文政十年(1827)の誕生から、慶応四年(1868)閏四月六日の最期、そして明治以後に続く顕彰まで。分かっていることを年代順に並べました。
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百日あまりの出来事です。屋敷を建て、用水を引き、学校を構想していた人が、取り調べのないまま斬られるまで。
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教科書からは消されました。それでも名は消えませんでした。恩を受けた人たちが、それぞれのやり方で返していきます。
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文政十年(1827)の誕生から、安政二年(1855)の家督相続まで。幕臣として立つまでの二十八年間を、十本の記事でたどります。
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文政十年(1827)、江戸駿河台の屋敷に生まれました。生家である小栗家の家系を、略系図とともにたどります。
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小栗家の始祖の武功について、資料によって「姉川合戦」と「長篠合戦」の二つの異なる伝えが残っています。
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円の中に立ち上がる波を図案化した「丸に立浪」。小栗家の家紋として、系図表に記されているものです。
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屋敷内で受けた漢学の手ほどきは、のちに幕末を彩る多くの人材と机を並べる経験でもありました。
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体は決して丈夫でなかったと伝わる少年時代。それでも周囲を統率する気の強さがあったといいます。
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男谷精一郎門下で直心影流を学んだほか、柔術・砲術も一通り修めました。家伝の小栗流についても紹介します。
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十四歳の忠順が、建部政醇の屋敷で年長者と対等にやり合い、評判になったと伝わる逸話です。
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十七歳での初登城から、二十一歳での御番入りまで。旗本としての公的な勤めが始まります。
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嘉永年間、建部政醇の娘・道子を妻に迎えました。結婚後に記された家計簿は、いまも群馬県の重要文化財です。
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安政二年(1855)、父・忠高の死をうけて家督を相続。満二十八歳で、小栗家十二代の当主となりました。
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安政六年の抜擢から万延元年の帰国まで。日本人として初めて世界を一周した一年余りを、十三本の記事でたどります。
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目付就任からわずか一日での随行拝命。井伊直弼による人選と伝わる背景と、家名存続のための縁組をたどります。
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万延元年正月十八日、使節団総勢七十七人が品川を出帆。本隊が乗ったポーハタン号と、同行した咸臨丸を紹介します。
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使節団の主役はポーハタン号に乗った本隊。咸臨丸はあくまで護衛・訓練を兼ねた同行艦だったという事実関係を整理します。
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二月十四日、独立国だったハワイ王国に寄港。国王夫妻への謁見は、使節団にとって最初の異国宮廷体験でした。
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三月九日、サンフランシスコに上陸。大歓迎のなかで、一行は絨毯やシャンパンに目を丸くしました。
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大陸横断鉄道がまだない時代、パナマ地峡を蒸気機関車で横断。日本人による最初期の鉄道体験のひとつです。
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五月十七日、ホワイトハウスでブキャナン大統領に国書を奉呈。五月二十二日には批准書交換が行われました。
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小栗の秘命は通貨交換比率の交渉。造幣局で金貨を天秤にかけ、通用価値で比べるべきだと主張して譲りませんでした。
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ニューヨークでは軍事パレードと大舞踏晩餐会。人気者になった従者トミーにちなむ逸話も伝わります。
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人気者だった従者トミーの発言が誤って伝わり、日本には「切腹した」という誤報が広まったと伝わります。
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新聞や随行士官の日記に残るとされる、小栗への高い評価。使節団のなかでも異彩を放った人物像をたどります。
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大西洋・喜望峰・ジャワ・香港・台湾を経て帰国。日本人として初めて世界を一周した使節団となりました。
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渡米中に起きていた桜田門外の変を知らぬまま帰国。無言の出迎えの背景を伝わる記録からたどります。
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文久元年の対馬事件から、文久三年の辞任まで。役職を変えながら対露外交と幕府陸軍の改革に取り組んだ、二年あまりの記録です。
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文久元年(1861)、ロシア軍艦が対馬を占拠した事件。外国奉行だった小栗が現地に赴き、交渉にあたりました。
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対馬での交渉で見せたと伝わる、身を賭した気迫のエピソードです。
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対馬での経験が、のちの財政・技術改革路線の原点になったという見方があります。
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文久二年、わずか十カ月ほどの間に小栗は五つの役職を渡り歩きました。
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幕府陸軍を西洋式に組み替える、軍制の根本にかかわる改革でした。
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イギリス人殺傷事件をめぐる外交処理に、対馬事件の経験が生かされたとされます。
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忠臣蔵の吉良上野介を連想させる名を、小栗はあえて選んだと伝わります。
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筋を通して加増案を退けたのち、小栗は自ら身を引きました。
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同じ幕府の実務家でありながら、対照的な道を歩んだ二人です。
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諸藩連合ではなく、郡県制と大統領制を組み合わせた国家像を思い描いていたと伝わる小栗。大政奉還の裏側にあった、もう一つの構想です。
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鳥羽・伏見の敗戦のあと、恭順か抗戦かで揺れた幕閣。小栗はこの場で最後まで抗戦を説いたと伝わります。
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地の利と幕府海軍力を組み合わせた作戦構想があったと伝わります。採用されないまま、小栗は罷免されました。
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役を解かれた小栗が選んだのは、知行地・権田村での帰農でした。正月から三月にかけての経緯です。
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屋敷を建て、用水を引き、学校を構想する。武装して立てこもるのではなく、村のために動いた二か月間でした。
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数千とも伝わる集団の襲撃を、百余名で三方に分けて防いだ戦い。三ノ倉戦争・権田陣屋戦争とも呼ばれます。
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草刈籠に身を隠し、村人たちに守られて会津を目指した道子。険しい道のりの果てに、新しい命が生まれます。
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「追討令のような事実は全くない」との報告があったにもかかわらず、討ち入りは強行されました。
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烏川の水沼河原で、家臣三名とともに斬首されました。戦わずして斬られた、幕閣要職経験者ただ一人の例です。
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父・忠順が斬られた翌日、閏四月七日。次代を担うはずだった又一もまた、高崎で命を落としました。
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用人の子・武笠銀介、当時十八歳。危険を顧みず、主君の首級を守ろうとしたと伝わります。
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処刑から一年近くを経て、なお恩義を忘れなかった人々がいました。首級を権田へ取り戻した顛末です。
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父も兄も失われたなかで生まれた一人の命が、小栗家の血筋を後世に伝えることになりました。
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権田村での二か月あまり、主君のそばを離れず、最後は運命をともにした三名の家臣がいました。
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名簿に残っているのは、ほとんどが名前だけの人たちです。
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維新後、小栗上野介の名は長く公の場から消えていました。名誉回復までの半世紀を振り返ります。
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処刑から四十七年後、初めて公的な組織の名で小栗の功績が公式に讃えられました。
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小栗の妻・道子の甥にあたる国際法学者が、生涯をかけて筆を執り続けました。
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小栗家の始祖の菩提所・普門院にも、昭和初期に大きな顕彰の動きが及びました。
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宮中にまで届いていたと伝わる、断片的ながら興味深い逸話を紹介します。
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現職の総理大臣が、みずから普門院に足を運び、小栗の功績を語りました。
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講和条約発効後、国際儀礼を受けた戦後初の人物が小栗上野介だったと伝わります。
事績
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横須賀製鉄所、遣米使節での通貨交渉、日本で最初の株式会社。八年のあいだに何を残したのかを、事績ごとに整理しました。
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慶応期に築かれたドライドックが、いまも現役で使われています。百六十年近く前の設備が動き続けている ― この一事が、この仕事の性格を表しています。
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出資を募って事業を起こし、利益を配当する。いまでいう株式会社の考え方を日本に持ち込んだのも、小栗でした。
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万延元年、目付として渡米した小栗が見たものは、艦船そのものより工廠の仕組みそのものでした。
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船を造る工場を、造るための工場がありました。
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鎌倉ヶ谷で頓挫した佐賀藩の造船計画。人材不足で行き詰まった機械一式が、幕府に渡っていました。
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道端での何気ない立ち話が、横須賀製鉄所という大事業の出発点になったと伝わります。
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イギリス・アメリカ・オランダとの比較の末、フランスとの提携という結論にたどり着きました。
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国産ドックを熱心に説く小栗と、その言葉すら知らなかった栗本。二人のやり取りが伝わっています。
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外国艦長の視察という機会をとらえ、船内の掃除と規律を一気に引き締めさせた逸話です。
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横須賀製鉄所の運営に必要な人材を育てるため、横浜にフランス語を教える学校が開かれました。
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横須賀製鉄所は、ものを作る技術と、人を育てる仕組みを同時に日本へ持ち込んだ場所でした。
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幕府が作った施設を、新しい政権の頂点に立つ天皇がみずから訪れて評価しました。
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幕末に始まった構想が、十年をかけて一隻の艦として実を結びました。
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横須賀で育った日本の海軍力が、四十年余り前と同じ海域でロシア艦隊を破りました。
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艦隊を率いて勝利をつかんだ提督が、その源流に思いを致し、言葉を残しました。
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招いた技師の像だけを建てるはずが、工廠長の異議により発案者の像が先に建ちました。
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横須賀で培われた技術と人材が、まったく別の産業である製糸業の近代化を支えました。
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江戸―京坂間の年間為替取引高、およそ二千万両。小栗が幕府に建議した、もう一つの経済構想です。
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無学文盲だが、人物を見る目だけは並外れていた大男。小栗屋敷に出入りしていた一人の渡り仲間の話です。
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大名貸しの焦げつきで揺れた三井を、一つの策が救います。その背後にあった小栗の後ろ盾。
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慶応三年八月、日本で初めての兌換紙幣が発行されます。実務を担ったのは三井御用所でした。
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身分を問わず出資でき、配当を受け、払い戻せる。兵庫商社の組織の中身を見ていきます。
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同じ慶応三年四月。立場は正反対でも、よく似た発想にたどり着いていた二人がいました。
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兵庫商社に先立つこと二年近く。フランスとの合弁による、さらに大がかりな商社構想がありました。
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六百万ドルの外債交渉は、まとまらないまま終わりました。この一件をめぐる、もう一つの見方も。
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福澤諭吉に新聞を発行させる。そんな構想が幕閣に提出され、そして却下されていました。
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武田斐三郎、澤太郎左衛門との共同で、瀧野川に日本初の洋式火薬製造所を計画していました。
ゆかりの人々
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東善寺十五代住職、のち全透院二十五世。幼名は菊之助。小栗上野介忠順が斬られて葬られた寺を、その十年後に継いだ僧です。家伝は、忠順と側室ウタの子と伝えています。
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『小栗卍教伝』の四頁と五頁に記された系図から抜き出したものです。
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『小栗卍教伝』は、卍教のほかに三人のきょうだいを挙げています。士族に嫁いだ長女シゲ、市川家を継いだ三男の芳蔵、そして名だけが残る二男のエイ。
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小栗上野介の生涯にかかわった十人。友となった人、道を違えた人、最期の場に立ち会った人。それぞれの生涯を紹介します。
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蝦夷地の実務から幕閣に転じ、横須賀製鉄所の建設を小栗とともに支えた盟友。維新後は言論の世界に生きました。
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同じ剣術の師系に学びながら、政治の場ではしばしば道を違えた同時代の幕臣。その評価は今も分かれています。
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エコール・ポリテクニック出身のフランス海軍技師。横須賀製鉄所の技師長として、日本の近代造船技術の基礎を築きました。
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咸臨丸の総督として太平洋を渡った幕臣。私財を投じて航海を支えたと伝わります。
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咸臨丸に乗り組んだ福澤諭吉が、維新後に旧幕臣・榎本武揚の助命に関わったという恩義の逸話です。
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小栗上野介の処刑にかかわったとされる、東山道先鋒総督府の監軍。維新後の歩みを紹介します。
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小栗家の用人の子として、十八歳のときに主君の首級を密かに菩提寺へ運んだという、忠義の逸話が伝わります。
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小栗上野介が最後の二か月を過ごした東善寺の、十四代住職。小栗家の金庫の鍵を預かっていたため拷問を受け、斬られかけた少年の命を乞いました。
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権田村の酒造家で組頭。小栗の家族を会津へ逃し、処刑を見届け、館林まで首級を迎えに行きました。
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慶応四年春、十七歳で東善寺へ通った娘。七十五年後の聞き書きが、小栗一家の姿を今日に伝えています。
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角力取りの子から小栗の歩兵へ。夫人一行の先導役をつとめ、五稜郭で戦い、京都で巡査になりました。
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会津で生まれた小栗の娘・クニ子を後年引き取り、小栗家の存続に力を尽くしたと伝わります。
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昭和期、小栗の菩提寺を訪ねたことが記録に残る、言論人と時の首相です。
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遣米使節に従者として随行し、若く陽気な人柄でアメリカ中の人気者になったと伝わる人物です。
ゆかりの地
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群馬(最後の日々と墓所)、横須賀(仕事の跡)、東京とその周辺(生まれ育った場所と先祖の墓所)。場所ごとの記事への入口です。
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群馬県高崎市倉渕町権田。小栗上野介が最後の二か月を過ごし、斬られて葬られた寺です。境内に墓所と碑があります。
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慶応四年閏四月六日、小栗上野介が斬られた烏川の河原。昭和七年に建った碑が、そこが処刑の地であることを伝えています。
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東善寺から一キロほど下手の台地。小栗が新しい暮らしのために建てていた屋敷の跡です。用水はいまも使われています。
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小栗の仕事がそのまま残っている土地です。胸像、スチームハンマー、そして百五十年以上動き続けているドック。
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さいたま市大宮区。小栗家の始祖・忠政の菩提所であり、昭和の顕彰が集まった寺です。
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小栗家が代々住んだ屋敷、艮斎の塾、築地ホテル館、そして世界一周の出発点。
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中野区。もと牛込にあった曹洞宗の寺で、幕末以前の小栗家の歴代はここに眠ります。
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東京に、忠順の名が刻まれたもう一つの墓があります。
豆知識
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年譜や事績では書ききれなかった、小栗上野介にまつわる小さな話を集めました。
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遣米使節での見聞や随行者の記録に残る、人物にまつわる小さな逸話を集めました。
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幕末の日仏交易には、蚕の卵とアラビア馬という意外な組み合わせの物々交換が伝わっています。
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開国を迫った提督の家を、使節団が訪ねていたという記録が残っています。
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太平洋を渡ってきた一行が、ニューヨークで目にした桁違いの巨船とは。
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「オグロ・ブンゴ・ノカミ」――アメリカの新聞はどう報じたのでしょうか。
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後年の華々しい評価とは異なる、同時代人が見た勝海舟の姿があります。
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使節団の見学先は、軍艦や工廠だけではありませんでした。
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家計簿や日記の細部からは、幕臣としての激務の合間の暮らしが見えてきます。
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給料日のごちそうは、うなぎだったようです。
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幕末の激動の中でも、正月には変わらぬ作法がありました。
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毎月きちんと支払われた女性と、処刑の年に権田で見られた女性。
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国の行く末が定まらないなかで、家庭には新しい命を迎える準備がありました。
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大政奉還直後の年の瀬にも、家としての秩序ある慣例が続いていました。
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洋式軍制改革を支えた交流は、私邸にも及んでいました。
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地震という災害の影響は、家計簿の上に長く尾を引いていました。
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世界一周の旅は、家計にも思わぬ潤いをもたらしました。
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小説や芸能作品に描かれた小栗上野介の姿、家に伝わる言い伝えの数々を、五本の記事で紹介します。
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幕末から明治を描いた長編小説に登場する幕府の要人たち。創作作品と史実の関係について考えます。
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未完の大長編に描かれたと伝わる小栗上野介の面影と、著者と顕彰運動をめぐる不思議な縁を紹介します。
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小栗家に伝わる家伝の武術「小栗流」と、坂本龍馬が学んだ流派をめぐる興味深い言い伝えです。
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幕臣も倒幕派も机を並べた安積艮斎の私塾。門人帳に名を残す多彩な人材を紹介します。
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遭難八十八年忌にあわせて作られたと伝わる薩摩琵琶の歌。顕彰運動が生んだ文芸作品を紹介します。
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赤城山の埋蔵金伝説から記念館構想まで、史実と伝承の境目にある話題を四本の記事で紹介します。
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幕府の御用金が赤城山に埋められたという、広く知られた伝説の中身と、その位置づけを紹介します。
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貴重な日記・家計簿が約八十年間、世に知られずにいた背景にある事情を紹介します。
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小栗上野介ゆかりの高崎市で進む記念館の整備について、簡潔に紹介します。
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日記・家計簿を発見し翻刻した本多夏彦氏の仕事と、その後の学術的評価を紹介します。
資 料
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どの本から読めばよいか。そして、自分で一次資料に当たるにはどうするか。両方をまとめました。
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原典に当たりたい方へ。資料の一覧と、実際に手を動かすときの順番を書いておきます。
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公式・一次情報を優先し、内容を確認したサイトだけを載せています。リンク切れにお気づきの際はお知らせください。
そのほか
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Commemoration in later years — the course of his rehabilitation
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The Yokosuka ironworks — the beginning of modern industry in Japan
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The Hyōgo Shōsha and the Tsukiji Hotel — the beginning of the joint-stock company
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The riverbed at Mizunuma — cut down in this place without crime
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The site of the house on Kannonyama, and the Odaka water channel
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The “grave of the generations of the house of Oguri” at Zōshigaya cemetery
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His birth, his family home, and the line of the house of Oguri
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The founder Oguri Matakichi and the legend of his feat of arms — Anegawa, or Nagashino?
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Asaka Gonsai's private school, and the company of able students
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Training in swordsmanship, jūjutsu and gunnery, and the Oguri school
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An argument at fourteen: the nerve he showed at the Tatebe house
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His rise as a shogunal official, and the embassy to the United States
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The currency negotiation, and the balance at the Philadelphia Mint
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Coming home without knowing of the killing at the Sakurada Gate
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Negotiating with Russia, and reforming the shogunate's government
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The Tsushima incident — a Russian warship in occupation, and negotiation on a knife edge
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Reforming the army on Western lines as commissioner of infantry
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The aftermath of the Namamugi incident, and its diplomatic handling
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Opposing an increase of stipend for Hitotsubashi Yoshinobu, and resigning
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The Yokohama ironworks — the works that came before Yokosuka
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Friendship with Kurimoto Joun, and the repair of the Shōkaku
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The link with the battle of Tsushima, and Tsushima come round again
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The first convertible paper money in Japan, the Edo–Yokohama note
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The founding of the Hyōgo Shōsha, the first joint-stock company in Japan
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The return of power to the emperor, and Oguri's case against it
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The great council at Edo Castle — the one voice for fighting on
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The water channel and the house on Kannonyama, and the school he hoped to build
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His last command: driving off the gamblers' attack at Sannokura
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The sixth day of the intercalary fourth month: the end at the riverbed at Mizunuma
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A loyal young man, and the story of how he guarded his lord's head
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Kuniko, “the only blood of the house of Oguri”, born at Aizu
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The rehabilitation of 1915, fifty years since the opening of Yokosuka
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Ninagawa Arata, and the inscription “benevolence and duty together”
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The commemoration movement of the 1930s — the stone for the summoning of his spirit, and the bust
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The first international ceremony after the war: the unveiling of the bust after the peace treaty
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Kurimoto Joun — from Ezo to the shogunate's councils, a lifelong friend
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Katsu Kaishū — a fellow of the sword, and his greatest political opponent
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Léonce Verny — the engineer who gave his working life to Yokosuka
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Kimura Settsu-no-kami Yoshitake — the commander who spent his own money
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Hara Yasutarō — what became of the man who ordered the beheading
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Mukasa Ginsuke — the young man said to have guarded his lord's head
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Suwa Ehaku — the abbot who held the key and begged for a boy's life
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Ikeda Denzaburō — the man who led them to Aizu and fought at Goryōkaku
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Ōkuma Shigenobu — the man entrusted with the daughter left behind
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Tokutomi Sohō and Okada Keisuke — those who came to pay their respects in the 1930s
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Tateishi Onojirō, “Tommy” — the attendant who set all America talking
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Japanese at Commodore Perry's house, and the story of his dog
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Schools for the blind and the deaf, and surprise at an America that cared for its people
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Was there a concubine? — the “Oaya” of the account book and the “Outa” of Gonda
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The year the accounts went well into surplus on the embassy allowance
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The Oguri school of the sword, and an unexpected link with Sakamoto Ryōma