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雑司ヶ谷霊園の「小栗家累代之墓」

東京に、忠順の名が刻まれたもう一つの墓があります。

小栗上野介の墓というと、処刑の地に近い権田の東善寺がまず挙がります。しかし東京にも、忠順の名が刻まれた墓があります。豊島区南池袋の都立雑司ヶ谷霊園、管理事務所の北側にあたる一種四号B五側の区画に建つ「小栗家累代之墓」です。大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』も、この家の十四代となった当主について「東京雑司ヶ谷墓地ニ葬ル」と記しています。

雑司ヶ谷霊園の「小栗家累代之墓」正面。竿石に「小栗家累代之墓」、台石に「大正元年九月 小栗貞雄建之」と刻まれている
「小栗家累代之墓」正面。台石に「大正元年九月 小栗貞雄建之」とある。2026年9月1日撮影。

建てたのは、娘の婿

台石には「大正元年九月 小栗貞雄建之」と刻まれています。忠順の処刑から四十四年後、建てたのは忠順自身の子ではなく、会津で生まれた一人娘・国子の婿にあたる人でした。

小栗貞雄は、もとは矢野姓です。明治のジャーナリスト・政治家として知られる矢野文雄(龍溪)の実弟で、文久元年(1861)十一月二十八日、豊後――いまの大分県――佐伯の士族・矢野程蔵(光儀)の三男に生まれました。父が葛飾県知事となり、明治三年一月に一家で横浜へ上陸したとき、貞雄はまだ八歳だったといいます。

兄弟はともに慶応義塾に学びました。兄の文雄は郵便報知新聞の副主筆を経て大隈重信の懐刀となり、大隈が同紙を買収すると社長に就きます。明治十九年、その文雄が経営不振の報知新聞の大改革に着手したとき、推進役として立ったのが当時二十六歳の弟・貞雄でした。中学校の英語教師だった貞雄は、「演説使い」――つまり弁士――として世に出ます。

縁を結んだのは大隈重信夫妻です。大隈夫人の綾子は旗本三枝家の出で、忠順の従妹にあたりました。国子はこの大隈邸で育てられています。戸籍簿には、明治二十年十二月十日、貞雄が「入夫婚姻ニ付戸主ト為ル」と記されました。その後の貞雄は扇橋製薬株式会社を興して薬用石鹼「アルボース」を製造し、社団法人実費診療所を設立して医療の社会化を目指しました。蜷川新は当時の貞雄を、「貞雄ハ教育家タリ新聞記者タリ代議士タリ実業家タリ」と書き並べました。

裏面に刻まれた四人

墓石の裏面には、忠順夫妻と、娘夫婦の四人の名が並んでいます。

  • 小栗上野介 明治元年閏四月六日卒 行年四十二歳

  • 妻 道子 明治十九年十二月廿七日卒 行年五十二歳

  • 小栗貞雄 昭和十年三月十六日卒 行年七十五歳

  • 妻 國子 昭和四年 行年六十三歳月日の部分は石の傷みで読み取れません。

墓石の裏面。小栗上野介、妻道子、小栗貞雄、妻國子の四人の没年月日と行年が刻まれている
裏面。右から、小栗上野介・妻道子・小栗貞雄・妻國子。2026年9月1日撮影。

刻まれた没年は、文献の記録ともよく合います。大坪元治氏の年譜は、国子を「小栗家唯一ノ血統」と呼び、明治元年六月、会津城下に生まれ、昭和四年八月四日歿、行年六十三と記しました。歿したのは、戸籍によれば神戸市西須磨でした。貞雄については昭和十年三月十六日、東京目黒洗足にて歿、行年七十五と、この石とそのまま重なります。

「明治元年閏四月六日」と刻まれている理由

忠順が斬られたのは慶応四年閏四月六日です。それがこの石では「明治元年」になっています。誤刻ではありません。

改元の詔が出たのは同じ年の九月八日ですが、このとき定められた一世一元の制では、その年の正月にさかのぼって明治元年とすることになりました。慶応四年と明治元年は同じ一年を指します。閏四月の出来事を「明治元年」と書くのは、その決まりに従った表記です。

妻・道子の没年月日も、この石にあります。明治十九年十二月廿七日、行年五十二。道子の生年は天保五年・九年・十年と研究者によって説が分かれ、記録ごとに数えが合いません。貞雄と国子が式を挙げたのは、この翌年の十二月十日にあたります。

大正元年九月という年

明治四十五年(1912)七月三十日の改元によって大正元年が始まりますから、「大正元年九月」は改元の二か月後です。同じ一年のうちに、小栗家のまわりでは続けて出来事が起きていました。

四月七日、旧領の下斉田村(のちの滝川村)で、養嗣子・又一主従の墓碑が新たに建立されています。遭難から四十五年目の命日にあたるこの日、下斉田村民をはじめ旧領の村々と高崎町周辺の百余名の寄付によるもので、遺族として貞雄の代理も来村し、盛大な供養祭が営まれました。七月には、貞雄と、当時十四歳の又一の父子が、元帥・東郷平八郎の自邸に招かれました。日露戦争の勝因として横須賀造船所の建設を挙げた東郷は、別れぎわに記念の書を贈ると申し出、貞雄の願いで為書は同行した又一の名とされました。「仁義礼智信」の書です。

もっとも、海軍という公の組織が文書で忠順の功績を認めるのは、この三年後、大正四年の横須賀海軍工廠創立五十周年を待たねばなりませんでした。この石は、公の顕彰が始まる前に、遺族が自分たちの手で建てた墓です。

幕末以前の一族は、ここにはいない

「累代之墓」という名前から代々の当主が眠っているように見えますが、石に刻まれているのは忠順以降の一家だけです。江戸における小栗家の菩提寺は牛込横寺町(通寺町)の保善寺で、五代・政信のときから菩提寺と定められ、『寛政重修諸家譜』にも本家の菩提寺として明記されています。大坪元治氏の年譜をたどると、歴代の当主が一人ずつ「牛込通寺町保善寺ニ葬ル」と書き継がれます。忠順より前の歴代はそちらに葬られ、その名は、この石には現れません。保善寺は明治三十九年まで牛込にあり、現在は中野区に移っています。

この寺が小栗家の日常にどれほど近かったかは、『小栗日記』が示しています。江戸にいた日々の記事には「忠高院様御忌日ニ付保善寺へ代拝祐左衛門罷出ル」のように、先代の忌日ごとに家来を代拝に遣わした記載が月々現れ、正月と暮には母堂が自ら参詣しています。父・忠高は安政二年七月二十八日に新潟奉行の役宅で病没し、遺骨は新潟の寺町・法音寺に葬られたうえでこの寺に分骨されました。日記に繰り返し出る「忠高院様」は、その父の法名です。

側面には、貞雄・国子より後の代の方々の名も刻まれています。近年に亡くなった方を含みますので、このページでは正面と裏面だけを掲載しています。

訪ねるとき

都立霊園ですので、日中は自由に参拝できます。すぐ隣にはよそのお家のお墓が並んでいますので、通路の歩き方や写真の向きにはご配慮ください。所在は豊島区南池袋四丁目、東京メトロ副都心線・雑司が谷駅または都電荒川線・都電雑司ヶ谷駅から歩ける距離です。

典拠:現地での撮影(2026年9月1日)/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』・顕彰会会誌『たつなみ』/『小栗日記』群馬県史料集第七巻。

→ ゆかりの地の一覧 / 会津で生まれた「小栗家唯一の血統」クニ子 / 父・忠高の死と家督相続 / 側室はいたのか ― 家計簿の「於綾」