大隈重信は、佐賀藩出身で、明治政府の外交・財政の中枢を歩み、のちに内閣総理大臣となった政治家です。幕臣・小栗上野介とは政治的な立場を異にしますが、両家は姻戚でつながっていました。大隈夫人・綾子が、小栗家の親族である旗本・三枝家の出だったからです。
大隈夫人・綾子と小栗家
綾子は、旗本・三枝七四郎頼永の次女で、兄に三枝守富がいます。資料は綾子を「小栗上野介の従妹」「小栗忠高(上野介の父)の姪」と記しており、いずれにせよ小栗家とは近い血縁にありました。三枝家の屋敷は築地、西本願寺の東方にあり、江戸切絵図にも「三枝七四郎」の名が見えます。大隈自身も明治二年から四年まで、旗本・戸川播磨守の屋敷跡にあたる築地の約五千坪の地に屋敷を構えていました。
この縁は、横須賀にも及んだと伝えられます。横須賀製鉄所の建設にあたってフランスと結んだ借款は、小栗の手で大半が返済されていましたが、残金の返済に新政府が窮し、フランスが横須賀を差し押さえようとする事態になりました。このとき大隈が京阪の実業家を説いて資金を工面し、難を逃れたと伝わります。ただし、この件を記した阿部道山氏自身が「少々研究が必要だ」と留保を付けている点は、あわせて記しておくべきでしょう。
遺された母子を支えた人々
小栗の遺児・クニ子は、慶応四年(1868)六月、会津城下で生まれました。父と養嗣子・又一が斬られたあと、身重の夫人・道子が権田村を脱出し、新潟を経て会津にたどり着いた末の出産です。小栗家に残った唯一の血筋でした。
会津戦争の終結を待って東京へ戻った道子とクニ子を、まず世話したのは三野村利左衛門でした。かつて小栗に抜擢され、三井の大番頭となった人物です。道子の実家は神田明神下の建部家でしたが、「一度嫁いだ身であるから実家の厄介にはなりたくない」として頼らなかったと、養嗣子となった小栗貞雄が阿部道山氏に語っています。三野村は深川の別荘に母子を匿い、世間からは「子供付きの妾を囲っている」と陰口を叩かれながら、旧恩を理由にこれを引き受けました。三野村の没後も、小栗母子は三野村家の庇護のもとにありました。
状況が変わったのは明治十八年(1885)三月二十七日、道子が四十八歳で三野村別邸に没したときです。数え十八歳で独りになったクニ子は、前参議・大蔵卿であった大隈重信の屋敷に引き取られました。大隈夫人・綾子が小栗の親族であったためです。つまり「三野村家が引き取った」という伝えと「大隈が引き取った」という伝えは、どちらか一方が誤りなのではなく、母の存命中は三野村家、母の死後は大隈家という前後の関係にあたります。
小栗家を継がせる
明治二十年(1887)十二月十日、数え二十歳のクニ子は、大隈重信・綾子夫妻の媒酌で婿を迎えます。矢野貞雄、文久元年十一月二十八日に大分県南海郡佐伯村の士族・矢野程蔵の三男として生まれた、数え二十七歳の青年でした。
貞雄の兄が、ジャーナリスト・政治家として知られる矢野文雄(龍溪)です。文雄は慶應義塾に学び、郵便報知新聞の副主筆を経て大蔵省に入り、明治十四年の政変で下野してのちは大隈の懐刀として立憲改進党の結成に中心的な役割を果たし、大隈が買収した報知新聞の社長となりました。貞雄も同じ慶應義塾で学び、中学校の英語教師を務めたのち、兄が政界へ出るにつれて「演説使い」すなわち弁士として活躍するようになります。兄が報知新聞の改革に着手したその年の十二月に、この結婚が整いました。
それまで小栗家は、又一の弟にあたる小栗悌四郎忠祥が第十三代として二十年にわたり相続していました。戸籍簿によれば、悌四郎は結婚と同じ明治二十年十二月十日に家督を貞雄・クニ子に譲って退隠しています。そして明治三十一年九月五日、クニ子は長男を出産し、小栗家代々の通称である又一を名としました。処刑された当主の血筋は、こうしてかろうじて次の代へつながったのです。
維新の元勲と、賊軍の家
大隈は、佐賀藩の「葉隠」が武士と商人の接触を厳しく戒めていたにもかかわらず、むしろ積極的に商人と交わった人物でした。三野村が大隈邸に足しげく通い、大隈も三野村を厚く信用したことは、小栗の遺族をめぐる二つの家の関わりとも無縁ではありません。
大隈は小栗の事績についても言葉を残しています。坂本藤良氏は、大隈が後年「小栗は謀殺されるべき運命にあった」と語ったと伝えています。明治新政府の近代化構想が、そっくり小栗のそれを引き写したものだったから、という理由です。
大正二年(1913)九月には、大隈夫妻が新潟市寺町の法音寺に小栗忠高の墓を訪ね、墓前祭が営まれました。忠高は新潟奉行の任地で病没し、その墓は上野介が建てたものです。さらに大正四年(1915)九月二十七日の横須賀海軍工廠創立五十周年祝典では、内閣総理大臣として祝辞を述べた大隈だけが、控えめながら小栗上野介の功績に触れています。他の高官の祝辞に小栗の名が見えないことを、顕彰にあたった人々は「奇異な感じ」と記しました。
典拠:阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年/坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』・顕彰会会誌『たつなみ』/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年