沈黙が破られたのは、小栗の処刑から四十七年後、大正四年(1915)九月二十七日のことでした。この日付には意味があります。慶応元年(1865)九月二十七日、内浦の山地で横須賀製鉄所の鍬入れ式が行われました。その五十年後の同じ日に、横須賀海軍工廠創立五十周年の祝典が挙行されたのです。
工廠長・黒井悌次郎の公文書
この祝典に合わせ、工廠長・海軍中将黒井悌次郎の名で『横須賀海軍船廠創設の由来及其発達の梗概』が発表されました。海軍当局が公表した文書として、小栗の功績を正面から認めた最初のものです。この文書は、のちに工廠の玄関前に銅板に刻まれて掲げられました。
文中、創設の経緯はこう記されています。
當時國用多端、府庫空乏ノ故ヲ以テ之ヲ難ズルモノ多ク、議論百出容易ニ決セズ。會々小栗上野介、勘定奉行ヲ以テ海軍所ノ事務ヲ兼掌スルアリ、夙ニ時勢ヲ洞察シ、極力異論ヲ排シテ船廠設立ノ急務タルヲ主張ス。幕府遂ニ之ヲ容レ、上野介及目付栗本瀬兵衛ニ命ジ、本邦駐劄ノ佛國全權公使ロセスニ就イテ諮詢セシム……時ニ元治元年十一月十日ナリ
続けて、慶応元年正月にヴェルニーが着任し、小栗・栗本・木下・浅野に山口駿河守、柴田日向守、石野筑前守、増田作右衛門を加えた八人が製鉄所委員に任ぜられたこと、そして九月二十七日の鍬入れ式が「横須賀海軍船廠建設事業ノ起工」であり、「實ニ今ヲ距ルコト五十周年前ナリ」であることが記されます。文書は次の一文で結ばれました。
今茲ニ創立五十周年祝典ヲ擧グルニ際シ、本廠創立由來ヲ略記シ、以テ永遠ニ傳フト云爾
大正四年九月二十七日 横須賀海軍工廠長 海軍中將 黒井悌次郎
坂本藤良氏はこれを、明治以降に小栗の功績をたたえたほとんど唯一の公式文書だとしています。それまでにも小栗に恩を受けた人々による感謝の言葉は各所にありましたが、それらは個人の心情の表明にとどまるものでした。この文書は、海軍という公的な組織の責任者の名において、維新の際には賊軍の側とされた幕臣の功績を認めるものだったのです。
祝辞に名がなかった
もっとも、祝典そのものは手放しの顕彰一色ではありませんでした。記念祝典の記録によれば、並みいる顕官・高官の祝辞のなかで小栗上野介を取り上げたのは、内閣総理大臣・大隈重信ただ一人、それも控えめな言及にとどまっています。他の祝辞に小栗の名が見えないことを、後年これを検証した人々は「何か奇異な感じと、不満を禁じ得ない」と書きました。
その分、工廠側の努力は徹底していました。栗本鋤雲、福地源一郎、勢多桃陽、塚越停春楼といった人々の著作から引用し、小栗の人となりや事蹟を紹介する刊行物を出して顕彰に努めたのです。塚越停春楼は倉渕村岩氷の出身で、民友社に入って『国民新聞』で健筆をふるった人物。その著『小栗上野介末路事蹟補正』が、この祝典の記念に配布されています。
新聞も動きました。『八州新聞』は九月二十日に「横須賀開港五十周年祝典/開港第一の功労者小栗上野介について」、『東京日日新聞』は二十六日に「横須賀記念祝典、工廠創設五十周年」、『読売新聞』は二十七日に「五十年の記念祝典、横須賀海軍工廠の創設及其開港を回顧す」と、いずれも大見出しで、創設の恩人として小栗上野介と栗本瀬兵衛(鋤雲)の功績を報じました。半世紀にわたり公の場で語られてこなかった名が、この数日のうちに新聞紙上に躍りました。
「ヴェルニーの像を立てるなら、第一に上野介の像を」
黒井中将の姿勢を伝える挿話が残っています。ヴェルニーの工学上の恩を受けた学者たちのあいだで、報恩謝徳の意味でヴェルニーの胸像を建てようという運動が起こり、その話を黒井に持ちかけたのが桜井錠二博士でした。黒井は直ちにその誤りを指摘します。
いまの工廠はヴェルニーによって開設されたものでは決してない。小栗上野介の決断によってなされたもので、小栗がフランス公使ロッシュを介して、当時上海にいたヴェルニーを雇ったにすぎない。ヴェルニーの像を立てるのなら、第一に上野介の像を建て、しかるのちに彼の像を建てるのが順序であろう――。阿部道山氏は、この経緯を黒井本人と小栗貞雄から何度も直接聞いたと記しています。こうして胸像は、大正十一年(1922)、皇后(のちの貞明皇太后)からの御下賜金を得て、朝倉文夫の手によって実現します。
顕彰運動の起点として
大正四年の顕彰は、名誉回復のあゆみの公式な起点にあたります。横須賀の開設から半世紀が経ち、建設に反対した人々や経緯を直接知らない世代が現場の中心になっていたことは、この転換の背景として見逃せません。実務にあたる技術者にとって、半世紀使い続けられる設備を築いた人物への評価は、政治的な立場とは切り離された敬意の対象になり得たのです。
ここから顕彰は続きます。昭和三年(1928)十一月には蜷川新『維新前後の政争と小栗上野介の死』が刊行され、数年のうちに九版を重ねました。昭和九年(1934)には、大宮の菩提寺・普門院に徳川家達の筆による巨大な招魂碑が建てられ、その除幕式には総理・海軍大臣・文部大臣・外務大臣がそれぞれ代理を派遣しています。この招魂碑の建立を斡旋したのも、大正四年に公文書を発表したあの黒井でした。
典拠:阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年/坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』・顕彰会会誌『たつなみ』
→ 昭和の顕彰