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後年の顕彰 ― 名誉回復のあゆみ

教科書からは消されました。それでも名は消えませんでした。恩を受けた人たちが、それぞれのやり方で返していきます。

明治政府が始めた学校教育は、小栗の業績を教科書に載せませんでした。「日本の近代化は明治以後」という筋書きに、幕府が建てた造船所は収まらないからです。

それでも、小栗の名は消えませんでした。恩を受けた人たちが、それぞれのやり方で返していきます。三井の大番頭になった元奉公人、日本海海戦を勝った提督、総理大臣。そして地元の権田では、村の人たちが法要を絶やしませんでした。

名誉回復のあゆみを、年代順に追います。

後年の顕彰 ― 名誉回復のあゆみ

  1. 明治十年
    (1877)以降

    三野村利左衛門の報恩

    三井の大番頭・三野村利左衛門は、若い頃に小栗家で中間奉公をした縁で小栗に商才を見込まれ、三井へ迎えられた人物である。小栗が江戸を去る前に託した「万一、婦女子が困ることがあったら頼む」という言葉を守り、三野村家は遺族への援助を長く続けた。

  2. 明治四十五年
    (1912)

    東郷平八郎の謝辞

    夏、東郷平八郎が小栗家の遺族を自宅に招き、日本海海戦に完勝できたのは小栗が横須賀造船所を建設しておいてくれたからだと礼を述べた。後日、記念の書を揮毫して小栗家に届けている。

  3. 大正四年
    (1915)

    初めての公式な顕彰

    横須賀海軍工廠創立五十周年の祝典で、総理大臣・大隈重信が代理を送り、この造船所は幕末に小栗が着工したものだと挨拶させた。それまで横須賀造船所は明治政府が建てたものと思われていた。これを機に胸像建立の運動が起こり、大正十一年(1922)九月、彫刻家・朝倉文夫の手になる小栗とヴェルニーの胸像が除幕された。

  4. 昭和七年
    (1932)

    水沼河原に顕彰慰霊碑

    五月五日、処刑の地に慰霊碑が建てられた。碑文「偉人小栗上野介 罪なくして此所に斬らる」は、道子夫人の甥にあたる国際法学者・蜷川新の撰・揮毫による。建碑の届出に際して警察から「碑文が穏やかでない」と待ったがかかったが、蜷川の働きかけで沙汰やみとなり、建立された。

  5. 昭和二十七年
    (1952)

    戦後の再出発

    五月、東善寺で法要。横須賀では戦後第一回の開港まつりが開かれ、大正十一年に建てられたのち戦中に金属供出された小栗・ヴェルニーの胸像が、銅像として再び鋳られた。同年九月には「小栗上野介日記」と「家計簿」が発見されている。

  6. 昭和二十九年
    (1954)

    東善寺に胸像。そして「対岸の村々」の慰霊も

    五月六日、横須賀市から権田へ寄贈された小栗の胸像が東善寺境内に建てられた。この年から、打ちこわしの際に亡くなった対岸の村々の人々の慰霊供養も、あわせて行われるようになった。

  7. 昭和三十一年
    (1956)

    栗本鋤雲胸像・仁義併存碑の除幕、顕彰会の改組

    五月十三日、盟友・栗本鋤雲の胸像と、仁義併存碑(農兵碑)が除幕。式典後、顕彰会は村を主体とする組織に改組された。前身は「小栗公遺跡保存会」である。

  8. 昭和三十二年
    (1957)

    第一回「小栗まつり」

    五月十五日、村主催による第一回の小栗まつり(九十年忌法要)。以後、毎年五月中旬に続けられている。

  9. 昭和四十三年
    (1968)

    百周年記念祭

    五月二日、観音山の邸跡に記念碑が除幕された。題字「至誠泰公」は井伊直愛(井伊大老の曾孫)の揮毫による。同年、東善寺境内に遺品収蔵庫が建てられた。

  10. 昭和五十一年
    (1976)

    顕彰会の会誌『たつなみ』創刊

    五月十五日の小栗まつりにあわせて第一号を発行。以後、毎年一回発行され続けている。単行本に載らない地元の記録・証言・調査報告が、この会誌に蓄積されてきた。→ 本と資料

  11. 昭和五十六年
    (1981)

    横須賀市と倉渕村が友好都市に

    十二月十四日、提携調印。小栗を介して、造船所の町と最期の地が結ばれた。

  12. 現在

    小栗まつり/ヴェルニー・小栗祭

    権田では小栗上野介顕彰会により墓前祭「小栗まつり」が続けられている。横須賀市も「市の恩人」として毎年十一月中旬に「ヴェルニー・小栗祭」を催している。ゆかりの地を参照。

  13. 令和九年
    (2027)

    NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(予定)

    小栗上野介忠順を主人公とする大河ドラマの放送が予定されている。主演は松坂桃李。

主な典拠:小栗忠順『小栗日記』(群馬県史料集第七巻)、『同方会報告』、蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』(昭和三年)ほか、本と資料に挙げた文献。「後年の顕彰」の各項は、小栗上野介顕彰会の会誌『たつなみ』各号によります。詳しくは本と資料を参照してください。お気づきの誤りはご指摘ください。

昭和二十七年以降の各項は、小栗上野介顕彰会の会誌『たつなみ』各号によります。誤りのご指摘を歓迎します。

もっと詳しく

「賊」として扱われた明治初期の沈黙の時代から、大正・昭和にかけての公式な顕彰、そして戦後の国際儀礼まで、名誉回復のあゆみを一つひとつの出来事に分けて、次の記事でさらに詳しく紹介しています。

  1. 明治初期の沈黙の時代

    維新後、小栗上野介の名は長く公の場から消えていました。名誉回復が始まるまでの半世紀を振り返ります。

  2. 大正の名誉回復、横須賀開港50年

    大正四年、工廠長・黒井悌次郎中将の名で発表された公式文書。数少ない公式顕彰文書の一つとされる意義を紹介します。

  3. 蜷川新と「仁義併存」の碑文

    道子夫人の甥にあたる国際法学者・蜷川新と、東善寺「仁義併存碑」の題字にまつわる物語です。

  4. 昭和の顕彰運動、招魂碑と胸像

    大宮・普門院に建てられた招魂碑と、徳川家達の題字、海軍省から下付された錨と水雷を紹介します。

  5. 皇后陛下と一枚の写真

    皇后陛下が小栗の銅像について御下問になったと伝わる、断片しか残っていない逸話です。

  6. 総理が参拝した日

    昭和十年、岡田啓介首相が普門院を参拝し「我が海軍の恩人」と題して講演した日のことです。

  7. 戦後初の国際儀礼、講和後の胸像除幕式

    昭和二十七年、塩見公園での胸像除幕式に米仏代表が列席した、戦後初の国際儀礼を紹介します。