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総理が参拝した日

現職の総理大臣が、みずから普門院に足を運び、小栗の功績を語りました。

昭和十年(1935)六月末日、当時の内閣総理大臣・岡田啓介と逓信大臣・床次竹二郎が、そろって大宮の普門院に参拝しました。前年に招魂碑が建てられたばかりのこの寺に、現職の総理大臣がみずから足を運んだのです。

本堂での講演と、新聞の扱い

岡田啓介は本堂で、海軍の建設者としての小栗について講演を行いました。海軍出身で、みずから大将まで務めた岡田にとって、横須賀製鉄所を築いた小栗への評価は、儀礼的な参拝以上の実感のこもったものだったと考えられます。講演の演題は「我が海軍の恩人」と伝わります。

この日の記事は都下の各新聞に出ました。しかも珍しがられて全国版に三段抜き、五段抜きの写真入りで報道され、世間をあっと言わせます。小栗上野介が、海軍の父である――ここから各方面の参拝者が訪れるようになった、と当時の住職は書き残しています。

床次竹二郎の言葉

参拝そのものは、二年前からの流れの上にありました。昭和九年(1934)、普門院の境内で小栗上野介招魂碑の除幕式が行われています。海軍大将・黒井悌次郎の斡旋により、碑面の題字は徳川家達公爵の揮毫。当日は総理大臣・海軍大臣・文部大臣・外務大臣がそれぞれ代理を派し、祝辞を寄せました。岡田総理の祝辞の一節はこうです。

「実にかかる意に於て小栗上野介は我国海軍の祖なりと云ふも敢て過言にあらざるべし」

そして翌年、総理自身がやって来た。当時、床次竹二郎は世間から副総理と称されていた人物です。その二人が揃って現れたのですから、寺の側が「いよいよ本物になりましたね」と言われたのも無理はありません。

その床次が、住職にこう語ったと記録されています。今日自分が墓参に来たのは、伊藤痴遊のすすめによる。小栗はあれほど忠誠な人であり、また国家的大事業をしたにもかかわらず、薩長のためにあの悲惨な最期を遂げた。それは一時の誤りであったのに、世人にそれが今なお徹底していない、いかにも遺憾である。首相だけでよいのだが、そういう意味で一緒に来た。つまり、今日はお詫びに来た訳です――と、にこにこしながら述べたといいます。

参拝の記念は、いまも境内に残りました。招魂碑のかたわらには岡田首相の手植えの月桂樹があり、反対側には床次大臣の手植えの月桂樹が並んでいます。山門を入れば横須賀海軍工廠が寄進した大砲があり、碑の前には海軍省から公式に下付された軍艦「榊」の錨と浮標水雷が据えられました。

その前後に訪れた人々

この時期、普門院には政財界や言論界の関係者がたびたび足を運んでいます。総理の参拝より二年前、昭和八年五月には評論家の徳富蘇峰夫妻が大宮警察署長の案内で小栗家の墓所に参拝しました。参拝後、蘇峰が「東京日日新聞」夕刊に寄せた文章にはこうあります。

「記者は上野介と政治的見地を異にした勝海舟翁の門下である、然も上野介が果敢、勇往、其の信ずる所に篤く、その仕うる所に忠に、横須賀船渠を創始するに際し、せめて土蔵付売家にとの志を憐み、且つ悲しむものだ」

蘇峰が勝海舟の門下であることを自ら断ったうえで、なお小栗を悼んだ一文です。このとき手植えられた松は、数年後には丈余に育っていました。ほかにも頭山満、伊藤痴遊らが好意を寄せ、海軍の将星たちは初期の恩人として参拝供養を続けています。

参拝が呼んだ論争

もっとも、この参拝は同時に、ある論争にも火をつけました。普門院は、小栗の首級が埋められた場所とされて顕彰が進んだ寺です。現職総理の参詣という出来事が報じられたことで、郷土史家の豊国覚堂は『上毛及上毛人』二二〇号(昭和十年八月)で、「真に首級の埋められてある所は何処かといふこと」を正面から取り上げ、権田の人々が沈黙を守っているのはなぜかと問いかけました。顕彰が広がるほど、史実の確定が求められるようになったということでもあります。

それでも、現職の総理大臣が講演までして小栗の功績を語ったという事実そのものは動きません。大正四年の海軍工廠での顕彰からおよそ二十年を経て、小栗への評価が海軍という一組織を超え、政界の中枢にまで及んでいたことを示す出来事でした。

典拠:阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年(同書には海軍を賛美する強い時代色があり、記述をそのまま鵜呑みにはできませんが、当時の顕彰の広がりを示す資料としては貴重です)/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』・顕彰会会誌『たつなみ』

→ 昭和の顕彰運動、普門院の招魂碑と胸像 / 戦後初の国際儀礼、講和後の胸像除幕式