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昭和の顕彰運動、招魂碑と胸像

小栗家の始祖の菩提所・普門院にも、昭和初期に大きな顕彰の動きが及びました。

昭和初期、小栗の顕彰は権田や横須賀にとどまらず、小栗家ゆかりのもう一つの土地でも進みました。埼玉・大宮(現在のさいたま市)の大成山普門院です。小栗家の始祖・忠政の菩提所にあたり、小栗上野介の首級が葬られたと語られてきた寺でもあります(この説には有力な異論があります。→ 忠義の若者、主君の首を守った話)。ここの住職だった阿部道山氏が小栗を語りはじめたのは、昭和二年のことでした。

墓石の拓本から始まった

きっかけは一通の郵便でした。阿部道山氏は、忠政から上野介に至る墓すべての石摺(拓本)を取り、蜷川新に送って判断を乞うたのです。それまで蜷川は、上野介の菩提所が普門院であることを知りませんでした。やがて「忠政公以来上野介まで一点の疑もなく小栗家の墓である」という返書が届き、そこから両者の協力が始まります。

蜷川の『維新前後の政争と小栗上野介の死』は昭和三年九月の刊行で、版を重ねること十六版に及びました。ただしこの本には普門院のことが書かれていません。まだ寺の存在が確認される前の出版だったためです。その空白は、のちに碑のかたちで埋められることになります。

徳川家達の題字による招魂碑

昭和九年(1934)十一月二十五日、普門院の境内で小栗上野介忠順招魂碑の除幕式が行われました。海軍大将・黒井悌次郎の斡旋により、碑面に題する八字は徳川家達公爵の揮毫です。そして碑の裏面には、蜷川新が撰文し自ら執筆した顕揚文が刻まれました。蜷川の著書に触れられていなかった「普門院」が、ここで小栗上野介の首級埋葬地として碑に刻まれました。埋葬の事実そのものは、のちに検証の対象になりました。

当日は曇り。境内は海軍の要人で埋まりました。総理大臣・海軍大臣・文部大臣・外務大臣がそれぞれ代理を派し、祝辞を寄せています。岡田総理の祝辞には、こうありました。

「実にかかる意に於て小栗上野介は我国海軍の祖なりと云ふも敢て過言にあらざるべし」

海軍側の祝辞も同じ趣旨です。「私が海軍々人トシテ殊ニ感謝ニ堪ヘナイノハ、今日ノ横須賀工廠ノ濫觴タル横須賀造船所ヲ建設セラレタコトデアリマス。此ノ点カラ申シマシテ我海軍建設ノ祖ト謂フモ過言デハナイノデアリマス」――。この除幕式をきっかけに、それまで途絶えていた小栗家との文通が始まり、十三代・小栗貞雄氏も普門院を訪れるようになりました。

軍艦「榊」の錨と浮漂水雷

除幕式の翌年、阿部道山氏は誰にも相談せず、昭和十年十月二十一日付で海軍省に一通の書類を提出します。招魂碑建立の経緯と除幕式の次第を記し、記念の品の下付を願い出たものでした。

その結果、海軍省から招魂碑の前に、軍艦「榊」に使用された錨と浮漂水雷が公式に下付されます。山門を入れば横須賀海軍工廠が寄進した大砲もあり、招魂碑の前には海軍から贈られた錨と水雷が据えられる――造船所を築いた人の墓所らしい光景になりました。碑のかたわらには、岡田首相の手植えの月桂樹と、反対側に床次大臣の手植えの月桂樹、さらに古市龍雄中将が工廠長時代に手植えした銀杏が並んでいます。

「まつり」と名づけた法要

普門院ではもともと、毎年三月なかばに本尊の観音菩薩を御開扉する観音講が行われていました。阿部道山氏は代替わりののち一度これを止め、かわりに「小栗まつり」を始めます。名称を「法要」ではなく「まつり」としたのは、小栗の功業を追慕することが主であって、悲しむべき法要とは性格が違う、という考えからでした。

まつりは毎年五月八日。横須賀海軍工廠からは、工廠長本人か代理が必ず列席することになっていました。運営は協賛会が担い、会長は県知事、副会長は福田庫文司海軍主計大佐、阿部道山氏が幹事長を務めます。最初の年は会員が四十九名しか集まりませんでしたが、十年後には六百五十二名にまで増えました。

昭和十六年、小栗の七十一回忌にあたる年のまつりでは、新任の横須賀海軍工廠長が下村宏大佐・倉永恒記中佐を帯同して参拝しました。長官は本堂裏の小さな自然石の墓前でこう述べています。「公に依つて今日の海軍の一等工廠でありますところの横須賀造船所が創設せられました。その工廠に長官を拝命いたしましたので、私は墓前に新任の御報告に参じた次第であります」。

横須賀の胸像――順序が入れ替わった話

横須賀に小栗の胸像が立つことになった経緯には、あまり知られていない一幕があります。大正十一年、横須賀開港五十年祭のとき、フランス人技師ウェルニーに工学の面で恩を受けた学者たちが、ウェルニーの胸像を建てようという運動を始めました。この話を工廠長の海軍中将・黒井悌次郎に持ちかけたのが、櫻井錠二博士です。

黒井は、その前提が誤っていることを指摘しました。いまの工廠はウェルニーによって開設されたのでは決してない。小栗上野介の決断によるもので、小栗がフランス公使ロッシュを介して上海にいたウェルニーを雇ったに過ぎない。ウェルニーの像を立てるなら、まず上野介の像を建て、そののちに彼の像を建てるのが順序であろう――と。こうして、先に小栗の胸像が建てられることになったのです。諏訪山公園では、頂上に小栗の胸像が立ち、そこから一段下がって軍港を眺める位置にウェルニーの銅像が置かれました。

この銅像建設の基金には、当時の皇后から金一封が下賜されています。小栗の写真が宮中で台覧に供されたことを、十三代・小栗貞雄氏は生涯の光栄として語りました。

顕彰は戦後も続きます。昭和二十七年には横須賀市の公園に小栗の胸像が新たに建設され、神奈川県知事・横須賀市長・商工会議所会頭らにより、フランス大使やアメリカ軍基地司令官ほか内外の名士が参列して除幕式が挙行されました。権田の東善寺では、昭和二十七年に境内が群馬県史跡に指定され、その翌年の春、命日を期して胸像の除幕式が盛大に行われています。横須賀から遥々寄贈された、皇后の御手許金で造られた朝倉文夫作の胸像で、翌年除幕されたその盟友・栗本鋤雲の像と相対して、いまも前庭に建っています。

典拠:阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年/『小栗日記』群馬県史料集第七巻

→ 総理が参拝した日 → 蜷川新の著作 → 諏訪公園の胸像 → 皇后の御下賜金