小栗上野介忠順 年譜

文政十年(1827)の誕生から、慶応四年(1868)閏四月六日の最期、そして明治以後に続く顕彰まで。分かっていることを年代順に並べました。

小栗上野介忠順の生涯を、五つの時期に分けてたどります。まず全体を一枚で見たい方のために、下に早見表を置きました。

日付は和暦を基本とし、要所に西暦を添えています。慶応四年(1868)は九月に明治と改元されますが、同年の出来事は慶応四年で通しました。

四十二年の早見表

太字は転機となった出来事
和暦(西暦)年齢出来事
文政十年(1827)―江戸駿河台に生まれる。幼名・剛太郎
天保六年(1835)9安積艮斎の塾に入門
安政二年(1855)29父・忠高の急死により家督相続
安政六年(1859)33目付。従五位下・豊後守
万延元年(1860)34遣米使節目付として渡米。日本人初の世界一周。帰国後、外国奉行
文久元年(1861)35対馬事件。ロシア軍艦占拠への対応にあたる
文久二年(1862)36勘定奉行に就任(以後、四度)。「上野介」と改める
文久三年(1863)37一橋慶喜への加増反対と辞任。ほどなく幕政に復帰し、造船所建設を建議
元治元年(1864)38横浜製鉄所を建設。造船所の建設地が横須賀に決定
慶応元年(1865)39横須賀製鉄所 起工
慶応三年(1867)41兵庫商社を建議・設立。築地ホテル館の建設に着手
慶応四年 正月42御役御免。権田村への土着願を提出
慶応四年 三月一日42権田村・東善寺に入る
慶応四年 閏四月六日42烏川・水沼河原にて斬首。取り調べは行われず
昭和七年(1932)―処刑の地に「罪なくして此所に斬らる」の碑
令和九年(2027)―NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(予定)

五つの時期

  1. 生いたちと結婚 ― 幕臣となるまで

    文政十年の誕生から、私塾での学問と武芸の修行、安政二年の家督相続、建部道子との結婚まで。幕臣として立つまでの二十八年間を、十本の記事でたどります。

  2. 幕臣としての台頭・遣米使節

    安政六年の目付抜擢から、万延元年の遣米使節、日本人として初めての世界一周まで。ハワイ・サンフランシスコ・パナマ・ワシントンでの見聞を、十三本の記事でたどります。

  3. 対露交渉と幕政改革者として

    文久元年の対馬事件から、勘定奉行・歩兵奉行としての幕政改革、生麦事件、「上野介」への改名を経て、文久三年の辞任まで。九本の記事でたどります。

  4. 慶応四年 ― 罷免から水沼河原まで

    正月十五日の罷免から、閏四月六日の斬首まで。三藩の使者は「追討令のような事実は全くない」と納得していました。それでも斬られています。

  5. 後年の顕彰 ― 名誉回復のあゆみ

    三野村利左衛門の報恩、東郷平八郎の謝辞、大正四年の初の公式顕彰、昭和七年の慰霊碑、そして小栗まつり。名を取り戻すまでに六十年以上かかりました。

主な典拠:小栗忠順『小栗日記』(群馬県史料集第七巻)、『同方会報告』、蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』(昭和三年)、小栗上野介顕彰会『たつなみ』各号ほか、本と資料に挙げた文献。→ 本と資料