慶応四年(1868)は、小栗にとって百日あまりの年でした。正月十五日に役を解かれ、二月末に江戸を離れ、三月一日に権田村へ入り、閏四月六日に斬られます。
この間、小栗は屋敷を建て、用水を引き、村の若者のための学校を構想していました。武装して立てこもっていたわけではありません。三藩の使者が実地を検分して「追討令のような事実は全くない」と納得したことも、記録に残っています。
それでも斬られました。寺でも屯所でも、取り調べは一切行われていません。幕閣の要職にあった人物で、戦わずして斬られたのは小栗ただ一人です。
慶応四年 ― 罷免から水沼河原まで
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正月十五日
御役御免
江戸城に呼び出され、陸軍奉行並・勘定奉行の両職を解かれる。徹底抗戦を説く小栗と、恭順に傾く幕閣との対立が背景にあったとされる。
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正月二十八日
権田村への土着願を提出
知行地であった上野国群馬郡権田村(三百七十五石)へ移り住みたい旨を願い出る。小栗家の知行地は上野・下野・上総・下総の四か国に点在していた。
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二月二十八日
江戸を発つ
母・邦子、妻・道子、養女・鉞子ら一族と家臣を伴って江戸を離れる。道子は江戸を出る前に懐妊していた。
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三月一日
権田村・東善寺に入る
高崎を発ち、その日の夕に権田村の東善寺へ到着。以後、この寺が住まいとなる。
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三月四日
打ちこわし勢の襲撃を退ける
二千人ともいわれる集団が寺を取り囲むが、フランス式の訓練を受けた養嗣子・又一と歩兵らが短時間で撃退した。翌日には近隣四か村の村役人が詫びに訪れている。小栗はこれを受け入れ、「二男三男を寺へ勉強によこすように」と告げ、「いずれこの谷から太政大臣を出してみせる」と語ったと伝えられる。
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三月〜閏四月
観音山に居宅と学校を構想する
寺から一キロほど下手の観音山で屋敷の建設を始める。水のない台地にフランス式の器械測量で用水路を引き、水田を開き、茶を植え、馬場を設けた。近隣の小高集落のために測量した用水は小栗の没後に完成し、現在も使われている。四月二十八日には屋敷の上棟が予定されていた。
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四月二十二日
「小栗追討令」
東山道鎮撫総督府から高崎・安中・吉井の三藩へ、小栗が「陣屋を構え砲台を築いている」との報告により追捕を命じる令が出される。閏四月一日、三藩の使者が東善寺を訪れて疑義をただしたが、実地を検分して「追討令のような事実は全くない」と納得し、小栗は恭順の証として飾り物の青銅砲と小銃を引き渡した。養嗣子・又一は釈明のため総督府へ出向いた。
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閏四月五日
捕縛
三藩の報告にもかかわらず、東山道軍の軍監・原保太郎(長州)と豊永貫一郎(土佐)は討ち入りを指示。早朝、三藩の兵が東善寺を包囲し、本堂に端座していた小栗主従を捕らえた。寺でも屯所でも、取り調べは一切行われていない。
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閏四月六日
(1868年5月27日)烏川・水沼河原にて斬首
朝四ツ半(午前十一時)ごろ、烏川の水沼河原(現在の高崎市倉渕町水沼)で、家臣の大井磯十郎・渡辺太三郎・荒川祐蔵とともに斬られた。数え四十二歳。最期に「すでに母と妻は逃がしたから、婦女子には寛典を望む」と述べたと記録されている。
幕閣の要職にあった人物で、戦わずして斬られたのは小栗ただ一人である。
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閏四月七日
又一ら四名、高崎で斬首
釈明に出向いて捕らえられていた養嗣子・又一忠道、塚本真彦、多田金之助、沓掛藤五郎の四名も、取り調べのないまま高崎城内の牢屋の前で斬られた。父子主従あわせて八名。処断後、家財道具は没収され、高崎で競売にかけられて軍資金とされた。
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閏四月末
以降会津へ ― 家族の脱出
母・妻・養女は村人二十余名に護衛され、権田村から長野原、秋山郷、十日町、長岡、新潟、津川を経て会津へ落ち延びた。身重の道子は会津で女子・国子を産み、会津戦争を生き延びる。のちに国子が婿を迎え、小栗家は再興された。
「逆賊」は、殺されたあとに貼られた名です。小栗は逆賊だから殺されたのではありません。明治政府軍に殺された人物は、殺されたあとで一様に「逆賊」とされました。
その名を剥がすのに、六十年以上かかります。→ 後年の顕彰
処刑の地と、そこに建つ碑についてはゆかりの地を参照してください。
もっと詳しく
慶応四年の百日あまりについては、前年の大政奉還への対応から、権田村での屋敷・用水・学校の構想、博徒襲撃の防戦、追討令をめぐる顛末、処刑とその後の家族の運命まで、次の記事でさらに詳しく紹介しています。
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諸藩連合ではなく郡県制・大統領制を構想していたと伝わる小栗。大政奉還ののちも幕府陸軍を率いての抗戦を主張し続けます。
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正月十二日の江戸城大評議で、小栗は最後まで徹底抗戦を主張したと伝わります。慶喜の袴を押さえたという逸話も。
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新政府軍を箱根におびき寄せ、駿河湾から艦砲で退路を断つ――採用されなかった作戦構想を紹介します。
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正月十九日の家宝の託付から、土着願書の提出、江戸を発って東善寺に至るまでの経緯をたどります。
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フランス式測量で引いた用水路と、村の若者のために構想した学校。権田村で小栗が手がけた二つの事業です。
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三月上旬、権田村を襲った博徒集団を、農兵・猟師ら百余名で撃退した戦い。幕府要職経験者が指揮した最後の戦闘でした。
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懐妊していた妻・道子が村人二十余名に護衛され、権田村から会津へと落ち延びた長い道のりをたどります。
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「追討令のような事実は全くない」との報告にもかかわらず討ち入りが指示された、閏四月一日から五日までの経緯です。
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取り調べのないまま行われた斬首の様子と、後世に伝わる最期の言葉をめぐる注意点を紹介します。
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釈明のため総督府へ出向いていた又一もまた、父の翌日、高崎で取り調べのないまま斬首されました。
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十八歳の武笠銀介が、危険を顧みず主君の首級を密かに持ち去ったと伝わる逸話です。
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館林に留め置かれていた首級を、明治二年ごろ、中島三左衛門・塚越房五郎らが権田へ取り戻した顛末を紹介します。
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