慶応四年閏四月六日、烏川の水沼河原で小栗忠順とともに斬られたのは、大井磯十郎、荒川祐蔵、渡辺多三郎(太三郎とも)の三名でした。単なる従者ではありません。権田村へ移ってからの二か月あまり、村を守る戦いの実働を担い、捕縛の場から刑場まで主君のそばを離れなかった家臣たちです。
権田から出た男、大井磯十郎
大井磯十郎は、権田亀沢の出身でした。江戸から従ってきた譜代の家臣ではなく、領地の村から小栗家の歩兵に取り立てられた男です。武勇に優れ、胆力がすわっていたと伝わります。江戸講武所頭取をつとめた小栗又一忠道と並んで写った写真が残っており、のちに重臣となったと記されています。
三月、三ノ倉村に集まった博徒の集団が権田村を脅かしたとき、小栗が談判の特使として送り出したのが、この磯十郎でした。『小栗日記』には、村役人の談判では埒が明かないので「大井磯十郎遣候処、彼是不当之義申聞候」――磯十郎を遣わしたところ、先方はあれこれ不当なことを言ってきた、とあります。暴徒の本陣は三ノ倉宿の禅寺・全透院。道中の石津や暖井の辻々には、竹槍や火縄銃や刀をたずさえた者たちが小雨の中で焚火を囲み、境内に至る参道は殺気立った人間でひしめいていました。磯十郎はそこへ一人で入り、決裂して帰っています。
交渉が破れた翌日、権田村は襲われました。小栗は村内の猟師や壮丁を合わせて百人ばかりを五隊に編成し、防戦にあたります。このときの戦いぶりも日記に残りました。「池田伝・大井磯十郎、五人程打取」。中之条町に博徒が押し寄せたと聞けば、小栗は磯十郎・多田金之助・池田伝に歩兵二人を添えて送っています。到着するという噂だけで、暴徒は逃げ去りました。
山手を指揮した荒川祐蔵
荒川祐蔵は、同じ戦いで山手方面を任されています。日記には「祐蔵并藤五郎之隊ニ而、多分防戦も可出来様子ニ付」――祐蔵と沓掛藤五郎の隊なら十分に防げそうだから、とあり、小栗が別方面へ兵を回す判断の根拠になっています。上ノ久保方面の敵を追い散らしたのも、この隊でした。
閏四月一日、東山道総督府の指図を受けた三藩の代表が「城郭を構えている」という嫌疑を検分しに来たとき、観音山を案内して回ったのも荒川祐蔵です。代表たちは実地を見て謀叛の企てがないことを確認し、小栗の真意を了解して引きあげました。翌二日、養嗣子・又一が高崎へ同道を求められたとき、付き従ったのが塚本真彦・荒川祐蔵・渡辺多三郎と権田村民二名。つまり荒川と渡辺は、いったん高崎まで行って、また権田へ戻ってきたことになります。
端然と座していた四人
閏四月五日、監軍の率いる一隊が東善寺の正面から、三藩の兵が裏山から攻め込みました。当時の記録は、寺内の様子を「寂として人なきが如し」と形容しています。入ってみると、上野介ら四人は端然と座して恭順の意を表していました。抗戦の構えはありません。一行は刀の下げ緒で主従を縛り、三ノ倉の名主兼問屋・戸塚平右衛門宅へ連行します。何らの取り調べもなく、元勘定奉行としての待遇も与えられず、縛られたまま一室に監禁されました。
翌閏四月六日、四ツ時半(午前十一時)。処刑の前に、監軍らは監禁していた部屋へ茶漬けの膳を運び、最後の食事をすすめました。主従は箸に手を付けようとしません。死を前に食が進まなかったのではなく、首を切られたとき切り口から食べたものが吹き出して、見苦しい姿を人々に曝すまいとする、武人のたしなみからであったと伝わります。
「我等に何の罪なし」
刑場は水沼河原。道路わきの荒地の中央に穴が掘られ、その脇に莚が敷かれ、後手に縛られたままの主従が端座させられました。『倉渕村誌』は、その場面を古老の話から書きとめています。
荒川祐蔵・大井磯十郎・渡辺多三郎の順に、穴の前に座らせられて首をはねられました。このとき、さしも豪胆な大井磯十郎が官軍を睨みすえて言います。
我等に何の罪なし、一言の取り調べもなく斬られるのは残念!
上野介は静かに、さとすような口調でたしなめました。
磯十郎!この期に及んで未練がましいぞ!
磯十郎が首を刎ねられる直前に思わず首をちぢめると、振りあげた首斬り役の呼吸が乱れる。それを上野介は静かに微笑みながら見つめていた――見ていた村人は、さすがは小栗様だ、幕府の要職にあった人だけに勇あり胆ありだ、と感嘆したといいます。
三人の梟首の傍らには、捨札が立てられました。
此者共、主人ノ悪ニ逢迎シ、共ニ奸逆候条明白ニ付、天誅ヲ加ヘ梟首スルモノナリ
村が引き取った
首のない遺体は、名主の佐藤藤七・池田長左衛門の二人を先頭に、権田村の村民がもらいうけ、戸板に乗せて運び去りました。夜になって村民は梟首を盗みに戻りますが、警戒が厳重で手が出ません。そこで警備の小頭と談判し、五両で買い取りました。小頭は、夜陰にまぎれて知らぬ間に盗まれた、と官軍の屯所へ報告しています。
ただし、そのときには上野介の首は既に館林へ持ち去られたあとでした。三人の首は胴体と一つにして東善寺境内の西山麓に葬られ、首のない上野介の遺体は、そこから数十メートル上方の山腹に埋葬されました。家臣の墓の上に主君の墓があるという、いまも東善寺に残る配置は、この日の埋葬のしかたから来ています。
取り調べのないまま命を落とした三名について、それぞれの経歴を詳しく伝える史料は多くありません。それでも、領地の村から歩兵に取り立てられ、使者に立ち、隊を指揮し、高崎まで行って戻り、最後に穴の前に座った――記録に残るその順序そのものが、彼らがどのような家臣であったかを語っています。翌日には、養嗣子・又一もまた高崎で同じ運命をたどりました。
典拠:『倉渕村誌』/『小栗日記』群馬県史料集第七巻/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年
→ 養嗣子・又一の最期 / 三ノ倉からの襲撃を防ぐ / 閏四月一日、使者への弁明 / 観音山の嫌疑