権田村の東善寺に落ち着いた小栗忠順が始めたのは、武装して立てこもることではありませんでした。屋敷を建て、用水を引き、村の若者のための学校を作ろうとしていたのです。滞在はわずか二か月あまりでしたが、そこで手がけた事業には、この人物の関心の向きがよく表れています。
観音山の宅地と用水路
三月六日以降、寺から一キロほど下手の観音山で新たな屋敷の建設が始まります。観音山といっても、山というより丘と呼ぶほうがふさわしい小山でした。もともと水のない台地でしたが、小栗はここにフランス式の器械測量を用いてたちまち用水路を引き、水田を開き、茶を植え、馬場まで設けました。隣接する小高集落のために測量した用水は、小栗の没後に完成し、現在も使われていると伝わります。
この普請は、思いつきの気晴らしではありませんでした。大坪指方・穂積驚『小栗上野介』は、三月十一日、村の黒鍬に観音山の開発を言いつけたと記しています。四百坪を平地にする工事費は三十両、うち先金として五両を渡した、という具体的な数字まで残っています。以後、小栗はほぼ毎日のように普請場へ足を運びました。日記には「朝普請所江相越候」の文字が繰り返し現れます。
屋敷の上棟は四月二十八日に予定されていましたが、その日を待たずに閏四月五日、小栗は捕らえられることになりました。
学校を作ろうとした夢
もう一つの構想が、村の若者のための学校でした。三月上旬、博徒の襲撃を退けたあと詫びに訪れた近隣四か村の村役人に対し、小栗は「これから自分の知っていることを若い者に教えるつもりだから、二男三男を寺へ勉強によこすように」と告げ、「いずれこの谷から太政大臣を出してみせる」と語ったと伝えられています。東善寺では外国語や数学など近代的な教育も試みられ、あわせて農兵の組織化も計画されていたという記録が残ります。
この「農兵取立て」の文字が、のちに疑いを呼びます。ただ共著は、新政府に刃向かうための私兵ではなく、国を背負って立つ気概のある人を一人でも多く育てたいという念願だったと見ています。著者の解釈ではありますが、同じ時期に学校を構想し、用水を掘り、茶を植えていた事実と並べると、無理のない読みです。
このとき権田村には、遣米使節として世界を一周した経験を持つ者が小栗を含めて四人(小栗、塚本真彦、荒川祐蔵、佐藤藤七)、さらに横浜仏蘭西語学伝習所で学んだ養嗣子・又一もいました。もし本格的に始まっていれば、相当な水準の学校になっていたはずです。
村を守る仕事も続いていた
普請と並行して、小栗は村の外からの求めにも応じています。三月九日、中之条町の役人から、博徒が押し寄せてくるという噂があるので助けてほしいと泣きつかれました。小栗はただちに大井磯十郎、多田金之助、池田伝に歩兵二人を付けて急行させます。五人が戻ったのは十一日で、博徒はすでに逃げ去って行方が知れない、という報告でした。
三ノ倉の襲撃を退けたときに働いた歩兵たちへの処遇も、この時期のことです。日頃から「行末見どころのある若者」と目をかけていた歩兵の銀十郎を、戦功によって小頭に抜擢し、中小姓格としました。歩兵全員にも金二分ずつの褒美を出しています。
三月十四日は戌の日にあたり、身重の道子の着帯の儀(帯祝い)がささやかに営まれました。夫婦になって十五年ほど、はじめての懐妊でした。母の邦子と養女の鉞子は鎮守へ参詣しています。事業と、村の始末と、家の慶事が、同じ二か月のなかで同時に進んでいたのです。
江戸では、消息の知れない人だった
その権田村の様子は、江戸には伝わっていませんでした。三月二十一日付の『中外新聞』には、板倉伊賀守は行方不明、小栗上野介は知行地の付近で土民の一揆に襲われ、その後どうなったか詳らかでない――という趣旨の記事が載っています。近藤勇も敗走して行方が知れず、有名な剣客や西洋学者も他郷へ去った者が多い、と続きます。
実際には、その頃の小栗は毎朝普請場へ通っていました。江戸から見れば消えた人であり、権田から見れば水路を引いている人でした。この落差が、二か月後の処断の背景にもなります。遠くから眺めれば、台地に掘られた堀のような用水と、高台に建ちはじめた建物は、陣地の構築と見分けがつきません。
大沢峯の鍛冶屋
共著は、この時期の権田での小さな挿話を一つ伝えています。村はずれの大沢峯という小部落に、鍛冶職の老人が住んでいました。三月のある日の早朝、火を起こしはじめたところへ馬蹄の音が近づき、見たこともない見事な馬が戸口を塞ぐように止まる。馬上の武士が、仕事の邪魔をしてすまないが道をたずねたい、と声をかけました。陣笠の裏金に気づいた老人は、あわてて平伏します。
陣田への道を教えると、武士は「相解った。サンキュー」と言い、馬腹を軽く蹴って去りました。老人には後半の一語が分かりません。のちに通りかかった顔馴染みの佐藤藤七に尋ねて、それが礼の言葉だと知り、二人で大笑いした――という話です。
逸話としての裏づけがある話ではありません。ただ、権田村で小栗がどう見られていたかを伝える一つの像ではあります。馬の見事さで誰かが分かり、道を聞かれれば平伏し、そして外国語で礼を言う人でした。
屋敷も学校も、完成を見ないまま終わりました。それでも、追われる身でありながら村のために水路を引き、次の世代の教育を思い描いていたことは、小栗という人物を理解するうえで欠かせない事実です。
典拠:大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年/『小栗日記』(群馬県史料集第七巻)ほか