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三ノ倉の博徒襲撃を撃退した最後の指揮

数千とも伝わる集団の襲撃を、百余名で三方に分けて防いだ戦い。三ノ倉戦争・権田陣屋戦争とも呼ばれます。

慶応四年(1868)三月一日、小栗一行は高崎を朝五ツ前に発ち、室田で昼を取り、夕七ツ過ぎに権田村の東善寺へ入りました。村役人たちが機嫌伺いに来たのが、その日の記録です。静かな土着生活が始まるはずでした。

ところが翌三月二日、不穏な報せが届きます。『小栗日記』はこう記しています。

三ノ倉村博徒共多人数相集り、最寄村々江廻文を廻し、不同意之者は焼払候抔種々申触候趣に有之

三ノ倉村の博徒が大勢集まり、近隣の村々へ廻文を回して、同調しない者の家は焼き払うと触れ回っている――。廻文は三ノ倉・水沼・岩氷・川浦の村々に回されました。権田村には何の沙汰もなく、村役人たちが不安を訴えます。小栗はそれぞれに手配をしつつ、「可相成丈(なるべく)穏便に対談致すべし」と村役人たちに申し渡しました。

三月三日は雨、夜になって雪。日記は「今日節句には候えども、御恭順御謹慎中に付き祝も致さず候」と書き起こされます。上巳の節句を祝わなかったのは、蟄居謹慎の身だからでした。この日、村役人同士の談判では埒が明かないので小栗の家来を出してほしいと請われ、大井磯十郎を遣わします。ところが先方は不当なことばかり言う。磯十郎は「左候わば何様にも存分に致すべし、若し不法に及び候わば、夫れだけの所置致すべき間、その旨心得べし」と言い切って帰ってきました。決裂です。夜半を過ぎたので、小栗はそれぞれに防戦の手筈を指揮しておきました。

三月四日 ― 百人余を五手に分ける

翌三月四日、朝六ツ半(午前七時)前から、三ノ倉村に屯集した者たちが押し寄せるとの注進が次々に入ります。小栗はまず、母、妻・道、鉞(於鉞)ほか女子ども、塚本真彦の家内を、武笠銀之助と佐藤藤七を付き添わせ、村役人たちを付けて村内の山あいへ立ち退かせました。

そのうえで自ら出陣します。日記によれば、又一とともに家来・歩兵・村内の猟師・強壮の者百人余を召し連れ、その人数を五手に分けました。二手は山手へ回し、小栗と又一は歩兵二十人余を率いて下手へ出張、残る二手は川浦村の方面を防がせる。小栗自身は双方を指揮しました。

対する襲撃側は三方から、およそ二千人。ついに上宿に火を放ち、もう一方は下手の鎮守前に放火し、さらに川浦村の方の川向こうから発砲を始めます。小栗はただちに歩兵へ撤兵進撃の令を下し、鎮守の森に屯集する一団を追い討ちにしました。退いていくのをなお追い、三人を討ち取ります。

この方面が鎮まると、川浦村へ攻め込もうとしますが、先方の発砲が激しく、しかも山手が心もとない。長左衛門屋敷から山手へ出てみると多人数が屯集していたものの、祐蔵・藤五郎の隊で防ぎきれそうだと見て、ふたたび又一を上宿へ向かわせ、山上から攻め下らせて烏川の向こう、川浦村へ押し入らせました。この局面で池田伝と大井磯十郎が五人ほど、歩兵たちが所々で十人ほどを討ち取り、賊徒は散り散りに逃走します。山手も祐蔵・藤五郎の隊が押さえ、援兵として磯十郎と伝を送って完全に鎮まりました。生け捕られた者が、村人に引き立てられて次々と運ばれてきます。

母は迎えを出して夕刻に東善寺へ戻りました。於鉞は遠くまで逃れていたので、その夜は帰れませんでした。

歩兵・銀十郎の銃

この日の戦いで、小栗がとりわけ書き留めた名前があります。

今日之戦に歩兵銀十郎儀、頗る奮戦致し、遂に四人打取、実に命中へ感服すべき程之銃手に有之候

二日後の三月六日、小栗はこの働きに報いています。銀十郎に「小頭」を申し付け、「中小姓格」を申し渡し、その他一同へは金二分ずつを褒美として与えました。 身分の枠を越えた抜擢であり、洋式の兵に評価と処遇を与えるという、小栗が幕政で実行してきたやり方がそのまま持ち込まれています。

その夜のうちに詫びに来た村々

戦いの当日、夜に入ると、川浦・岩氷・水沼・三ノ倉の四か村の役人たちが詫びに現れました。これ以上人数を差し向けられては一同難渋する、そもそも自分たちは博徒にそそのかされて拠りどころなく今日の所業に及んだのだ、と切に詫びたのです。小栗の返答は、今後は異議なくこれまで通り組合村六か村が和融し、何事も談合の上で決めるという詫書を差し入れるなら異存はない、というものでした。村役人はそれぞれ一人ずつ留め置かれます。

翌五日、川浦・岩氷・三ノ倉の村役人と小前が連印した詫書が提出され、生け捕りの者の引き渡しを願う嘆願書も出されました。小栗は捕虜をそれぞれ本人に返し、詫書だけを村役人方に預けています。同じ日、この一件の届書をしたため、仕立飛脚で江戸の留守宅へ送り、日下数馬と駒井甲斐守にも書状を出しました。七日には、荻生村と大戸村からも村役人がねぎらいに訪れています。

この戦いは、のちに「三ノ倉戦争」「権田陣屋戦争」などと呼ばれます。襲撃の動機については、小栗が持ち帰った金品を狙ったとする見方、物価高騰のなかで二月中頃から起きていた打ちこわしの延長とする見方、さらには小栗を討つ口実を作るため何者かが博徒を煽動したのだとする見方まで、いくつもの解釈が伝わっています。どれが正しいのかを決める記録はありません。

戦いの翌々日から、水路の普請へ

目を引くのは、この直後の小栗の行動です。三月六日の昼過ぎには観音山へ出向いて家作の地所を見分し、十一日には観音山の開発を村方に申し付けて四百坪を平地にし、代金三十両ほどで仕上げる段取りを決め、先渡しの五両を渡しています。十三日には小いたつ沢から観音山へ水を引く道筋を見て回り、水引普請の手附金として三両を出しました。九日には、中之条町がまた博徒に押し寄せられたと聞いて、大井磯十郎・多田金之助・池田伝に歩兵二人を添えて救援に送っています。

十二日、江戸へ遣わした飛脚が戻りました。江戸表は官軍の東下で「殊の外混雑」しており、恭順を尽くすべきであるから一同過激の所置をしてはならぬ、との達しが届いていました。

結果として見れば、この防戦は幕府の要職にあった人物が指揮した最後の戦いになりました。この一か月後、小栗は取り調べもないまま烏川の河原で斬首されます。

典拠:『小栗日記』群馬県史料集第七巻/『倉渕村誌』/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』

→ 観音山の水路・宅地開発、学校を作ろうとした夢

→ 捕縛と斬首