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妻・道子の避難行、会津への道

草刈籠に身を隠し、村人たちに守られて会津を目指した道子。険しい道のりの果てに、新しい命が生まれます。

小栗忠順が捕らえられる直前、身重の妻・道子は、母・邦子や養女・鉞子とともに権田村を脱出しました。目指したのは会津です。この避難行がどのような道のりだったのかは、のちに現地を踏査した郷土史家たちの調査によって、かなり詳しく分かっています。

上州の最奥、和光原へ

一行がまず身を寄せたのは、吾妻の奥にある和光原(現・群馬県中之条町)の山田弥平次の家でした。弥平次は天保十一年生まれの当時二十九歳。義気があり人々の信望の厚い人物だったといいます。この家は幕府の御用提灯を預かる家でもありました。

道子が着いたのは閏四月八日の夕刻。旅の疲れを癒す間もなく、手作りの夫の位牌に向かって香を手向け、涙ながらの回向を怠らなかったと伝えられています。翌九日の夕刻には邦子と鉞子の一行も到着し、三人はここで再会しました。その間、護衛の頭である中島三左衛門と弥平次は、人足集めと道中の食糧の手配に追われています。

二手に分かれる

ここから先、一行は二手に分かれて潜行します。これから越える秋山郷越え(謙信越え)があまりに険しく、全員で行ける道ではなかったためです。

邦子と鉞子の組は、善光寺参りの道者に変装して閏四月十二日に出発します。尻焼温泉の脇を抜け、長平村から谷沢原へ。草津の人目を避けて高原を通り抜け、熊笹と葦が密生する芳ヶ平の湿地を越え、渋峠へ。さらに志賀高原から湯田中、野沢を経て十日町、堀之内へ。護衛は池田伝三郎・中沢兼五郎・萩原五平次・塚越房吉らに和光原の案内役を加えて十五名ほどでした。道子に付き添う予定だった十八歳の中島さいも、秋山郷越えは無理と地元の者に止められ、この組に加えられています。

道子の組は、秋山郷を越える難路を選びました。案内役の頭領は山田弥平次。彼の家はもともと越後秋山郷の出で、遠い祖先は獲物を追って越後からこの地に入った猟師だったといいます。峻険な謙信越えは、弥平次にとっては故郷へつながる道でした。ほかに駕籠方・荷役方として山田要善(二十六歳)・山田庄蔵(二十一歳)・山本芳五郎(四十五歳)・本多勘十郎(十七歳)・山本三郎(十七歳)ら、牛方も加えて総勢二十名ほど。

身重の道子を運んだのは山駕籠でした。これは彼女のために作られたものではなく、村で病人や怪我人が出たとき医者へ運ぶために備えてあったものです。急な坂では、駕籠の先に細引きをつけて引っ張り上げたと伝わります。

野反の清水、大倉峠の刃

野反道の頂上は標高一六五三メートルの弁天峠。そこに至るまで約三里の急坂が続きます。閏四月十二日は今の暦で六月三日。新緑の山道は歩けば喉が渇きます。道中に湧く冷たい清水で一行は喉をうるおしており、和光原の人々は今もその泉を「小栗の一杯清水」と呼んでいます。すぐ上にあるもう一つの泉は「象山の一杯清水」。かつて佐久間象山が鉱山調査の途次、同じ山田弥平次の家に泊まり、同じ野反道を辿って秋山郷へ抜けているのです。

道中の逸話も、案内人の子孫からの聞き書きとして残りました。大倉峠の峰付近まで来たとき、山本芳五郎が酒手をせびるつもりで「ここから帰らせてもらう」と帰るふりをしたところ、道子の家来が突然刀を抜きました。芳五郎は後年、「おらあー、あんなおっかねえ思いをしたのは生まれて初めてだ!」と述懐したといいます。

佐武流山の麓から障子峰の近くを通っていたとき、疲労と緊張が極限に達した道子は、駕籠の中から叫びました。「まだ秋山へは着かぬか」。「もうじきでがんす」。半刻ほど行ってまた、「まだ着かぬか」。「はあ、じきでがんす」。何度かそれを繰り返したのち、ついに「お前たちは妖怪変化か!」と懐剣を抜いた――と、駕籠をかついだ当人が語り残しています。

秋山郷の湯と、置いていった刀

一行がたどり着いたのは和山温泉です。ただし当時の秋山郷に、畳と膳のある温泉宿などありません。河床から湧く湯を石や木で囲った露天の湯と、掘っ立て柱に茅を葺き、入口に筵を下げただけの小屋があるだけです。田を開く土地もない土地柄で、食事は粟飯か稗の雑炊、川魚の塩焼き、栃の実や稗の粉で焼いた焼餅といったところでした。道子はここに二泊し、疲れた体と鬱積した心を少しは癒したと思われます。

出立にあたり、道子は山田弥平次に一尺三寸の白鞘の屋敷差しを渡しました。鎌倉則光の銘のある刀です。

いろいろお世話になりました。この差し料は夫上野介の形見の品でございますが、お礼のしるしに差し上げたいと存じます。しかし、私はご覧の通り身重なからだ、万一男子出生の折には、何卒お返し下さいますようにお願い致します

生まれたのは女子でしたから、刀は山田家に残りました。しかし昭和二十年の敗戦後、警察署から日本刀の提出を命じられ、係官に差し出したきり戻らなかったと、弥平次の孫・山田衛氏が語っています。一方、道子を乗せた山駕籠のほうは村のお堂に保存されており、昭和四十三年に東善寺へ寄贈されて、今もそこに伝えられています。弥平次は孫に、「立派な夫人だった」と語り続けたそうです。

なぜ新潟を経由したのか

越後の堀之内村で、二つの組は落ち合いました。しかしここで用意した路銀が底をつきます。中島三左衛門は塚越房吉と中沢兼吉を権田村へ引き返させ、名主の勘兵衛と池田長左衛門に三百両の調達を依頼させました。そのとき三左衛門は、こう言い添えています。「万一遅れた場合には会津若松の横山主税邸を訪ねよ」。

堀之内から新潟までは約二十五里、百キロの道のりです。老いた母堂と、出産を四十日から五十日後に控えた道子、十三歳の鉞子にとっては、肉体的にも精神的にも大きな負担でした。それでも一行は堀之内を発ち、二日目には新潟にたどり着きます。迎え入れたのは、新潟の検断(大庄屋)で紙問屋でもあった藤井忠太郎の家でした。藤井家はかつて新潟奉行に仕えた家だったのです。

危険を冒してまで新潟へ向かったのには理由がありました。母・邦子の、夫の墓に参りたいという悲願です。忠順の父・小栗忠高は新潟奉行として赴任し、任地で病没していました。その遺体は新潟市南堀の法音寺に埋葬されています。追われる身でありながら、一行はその墓参のために港町へ入っています。

新潟から会津へは、阿賀野川を津川まで遡り、そこから陸路をとる道筋でした。会津藩が物資を運ぶのに使っていた道です。そして会津には、小栗家を迎える理由がありました。パリの万国博覧会に会津藩が横山主税・蝦名郡治の二名を派遣したとき、幕府の出品責任者であった小栗が世話をしていたのです。家老・横山主税の助力は、その縁の上にありました。

会津へ行った者、権田に残った者

慶応四年六月十四日、道子は会津城下で女子を出産します。のちに国子(クニ子)と名づけられるこの子が、公式の系譜に載った忠順のただ一人の子です。

会津をめざした一行の顔ぶれは、名簿として残っています。母・邦子、妻・道子、養女・鉞子、付き添いの中島さい、そして護衛の十七人。この名簿に出てこない人を伝える記録が、権田の側にあります。小栗一家を間近に見た池田かよは、奥方や女中とは別に「おうた」という二十二、三の女性がいたと語りました。小山訂『小栗卍教伝』は、忠順と側室ウタの子である菊之助が会津へは向かわず、誉田三左衛門の家と下室田の長年寺にかくまわれ、のちに東善寺十五代住職・小栗卍教になったと伝えています。

→ 権田の「おうた」と家計簿の「於綾」 / 小栗卍教 ― 側室の子と伝わる僧 / 池田かよ

典拠:小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』/小栗上野介顕彰会会誌『たつなみ』(現地踏査および山田衛・本多大膳らからの聞き書きを含む)

→ 会津まで同行した護衛十七人の名簿 / 会津で生まれた「小栗家唯一の血統」クニ子 / 誉田三左衛門