小栗卍教(おぐり まんきょう)は、上野国群馬郡権田村(現・群馬県高崎市倉渕町権田)の東善寺十五代住職、のちに三ノ倉・全透院の二十五世をつとめた曹洞宗の僧です。幼名は「菊之助」といい、安政四年(一八五七年)四月十日に江戸駿河台で生まれ、大正十年(一九二一年)六月九日に前橋で没しました。
東善寺は、小栗上野介忠順が最後の二か月を過ごし、斬られて葬られた寺です。その寺を、忠順の死から十年後に継いだのがこの僧でした。
卍教の三男・小山訂が昭和五十年(一九七五年)に書き残した小冊子『小栗卍教伝』は、卍教を忠順と側室ウタとのあいだの子と伝えています。
駿河台の屋敷の子
生まれたのは安政四年四月十日、江戸駿河台の屋敷です。事情により一時、分家の小栗仁右衛門家へ預けられ、のち本家が引き取って養育したと『小栗卍教伝』は記します。仁右衛門家は禄高七百五十石、初代忠政の二男の家でした。
万延元年(一八六〇年)、忠順が遣米使節から帰ると、土産にガラス管の玩具を与えられました。下部に揮発性の高い液体が入っていて、そこに手を当てると液体が膨張し、中の虫の形をした物体を押し上げる仕掛けです。現物は高崎市榛名歴史民俗資料館にあります(資料番号 4-10-16)。
伴の者を従えて、毎日学問所へ通ったといいます。七歳で剣術の修業に入りました。
ある日、忠順から新刀を与えられ、切れ味を試そうとして犬を斬りました。従者に口止めしたのに告げ口され、忠順に叱責されます。
罪なきものを斬るとは武士にあるまじき振舞である。左様な者は腹を切れ
菊之助は実際に腹を切りました。驚いた忠順が医者の手当を受けさせています。腹には十センチほどの傷跡が残り、以後は平素、鈍刀を差していたと伝わります。筆者の訂は、その傷跡を見て育ちました。
権田村の十二歳
慶応四年(一八六八年)二月二十八日、一家は駿河台の屋敷を引き払い、三月一日に知行地の権田村へ入りました。『小栗日記』にも「廿八日……発足」「三月朔日……権田東善寺に着致ス」とあります。菊之助は数え十二歳、妹のシゲは三歳。一家はしばらく東善寺を仮住居としました。
三月四日、三ノ倉方面から博徒が押し寄せたとき、婦女子は上ノ久保方面の山間へ退いています。
観音山の屋敷普請が始まると、菊之助は時々普請場へ遊びに行き、雑木を切って刀身を曲げ、鞘に納まらなくして大工を困らせたといいます。
閏四月五日、忠順が捕らえられ、翌六日、水沼河原で斬られました。官兵に連れ去られるとき、菊之助は駆け寄ろうとして、忠順が目顔で制したため引き返したと伝わります。その時の悲しさがいまも脳裏に浮かぶ、と父は後年までよく語った ── 筆者の訂はそう書いています。
長年寺から東善寺へ
処刑のあと一族の詮議は厳しく、菊之助はまず旧家臣・中島三左衛門(のち誉田三左衛門)の家に匿われ、やがて身の危険を感じて下室田の長年寺へ移りました。妹のシゲは母とともに、水沼村の蓮華院という寺に匿われたといいます。
そののち、東善寺十四代・恵伯和尚の弟子となり、僧籍に入って万暁と称しました。
師の恵伯は、もとの僧名を悪伯(あくはく)といいます。文政三年(一八二〇年)、武蔵国児玉郡八幡山町の生まれ。慶応四年には小栗家の金庫の鍵を預かっていたため、死に至る寸前まで拷問を受けています。縄目にかかった若者・武笠銀介の助命を、捕方に無我夢中で嘆願したのもこの人でした。
明治五年(一八七二年)の東善寺の戸籍には、恵伯(五十三歳)と弟子二人の名が載っています。万午と万暁。万暁は安政四年生・十六歳とされています。
明治七年(一八七四年)、師弟はそろって姓を定めました。悪伯は寺のある諏訪山から諏訪恵伯に、万暁は小栗卍教になります。
東善寺十五代住職
明治十一年(一八七八年)ごろ、恵伯が遷化し、卍教が東善寺十五代住職となりました。
明治十三年十一月四日、エツと結婚しました。エツは下総国古河(現・茨城県古河市)西代官町の士族・蔭山政資(号 娯老)の三女で、安政七年二月一日生まれ。政資は古河藩校・盈科堂の教官を務めた人です。
明治十四、五年ごろ、旧家臣の池田伝三郎が東善寺を訪ねてきました。「菊之助様お久しぶりで御座います」と鄭重に挨拶し、博徒騒動のときの話や、明治十年の西南戦争に熊本鎮台の伍長として参戦し籠城した話をしていったといいます。池田は忠順の母と妻の会津脱出行を護衛し、のち開陽丸で函館へ渡って五稜郭で戦った人です。
明治三十五、六年ごろには、祖母のウタが権田の寺に長く滞在しました。寺山の中腹にある諏訪神社の境内で、杉の枯葉を束ねて高い石段から投げ落とし、まりのように弾んで下の道へ落ちていく様を見て手を打って喜んだ ── そんな一日を、訂の母と姉たちはよく話したそうです。
『上野国寺院明細帳』には「試補小栗卍教」の署名が残っています。
明治四十一年十月二十八日、烏川の水力電気の水源地を視察する途上で権田の旅館に泊まった高津仲次郎が、東善寺を訪ねて卍教に面会し、小栗上野介の事蹟を問うています。『高津仲次郎日記』に「東善寺住職小栗卍教ニ面会、小栗上野介ノ事蹟ヲ問フ」とあります。卍教五十二歳、住職になって二十七年目のことでした。
全透院二十五世、そして前橋で
大正十年、三ノ倉の全透院二十五世住職となりました。『倉渕村誌』の全透院歴代に「二十五世 悦応卍教」とあります。前の二十四世・弘岳秀法が示寂したのが大正十年一月二十四日ですから、二十五世をつとめたのは最晩年の数か月だったことになります。東善寺と全透院で歴代が重なるのは、兼務の慣行によるものと見られます。
全透院には、卍教の位牌と墓石が残っています。あとを継いだ二十六世の萬室善栄も小栗姓で、東善寺十六世からの転住でした。
大正九年七月二十六日、妻のエツが没します。その翌年、大正十年六月九日、卍教は前橋で没しました。数え六十五歳。法名は悦応卍教大和尚。家督は二男の誉次が継ぎました。
東善寺十六代と全透院二十六代は、養子の善栄が継ぎました。
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『小栗卍教伝』が挙げる三人のきょうだい。シゲが嫁いだ三浦吉堯、市川家を継いだ芳蔵。
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本の四頁と五頁に記された系図を、そのまま図にしました。忠順・側室ウタ・卍教ら四人の子、卍教の子の代まで。
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小栗家の家計簿に毎月あらわれる「於綾」と、権田村で見られた「おうた」。大坪元治氏と坂本藤良氏の読みが分かれています。
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慶応四年閏四月六日。十二歳の菊之助が、連れ去られる父を見送った日のことです。
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縄目にかかったこの若者の助命を嘆願したのが、卍教の師・恵伯和尚でした。
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東善寺、水沼河原、観音山。卍教が二十七年を過ごした寺も、ここにあります。
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昭和五十年に小山訂が書き残した記録の影印版。請求記号 Y93-R10737。国立国会図書館で閲覧できます。
ndlsearch.ndl.go.jp
典拠:小山訂『小栗卍教伝』影印版(影印版は国立国会図書館所蔵、請求記号 Y93-R10737。本と資料で紹介しています)/小板橋良平『勝海舟のライバル 小栗上野介一族の悲劇』あさを社/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』/『倉渕村誌』/『上野国寺院明細帳』/『高津仲次郎日記』