閏四月六日(西暦1868年5月27日)早朝、三ノ倉村の全透院に留め置かれていた小栗忠順と家臣三名――大井磯十郎、渡辺太三郎、荒川祐蔵――は、取り調べを受けることのないまま、烏川の水沼河原(現在の高崎市倉渕町水沼)へ連行され、斬首されました。小栗は数え四十二歳(満四十一歳)でした。前日まで観音山で屋敷の完成を目指していた人物が、一夜にして刑場へ引き立てられました。
「逆謀判然」という四文字
ことの起こりは、四月二十二日に東山道鎮撫総督府から高崎・安中・小幡の三藩へ発せられた追捕の回状でした。小栗が権田村で陣屋を構え砲台を築いている、という報告にもとづくものです。観音山の普請と用水の掘削、江戸から携えてきたフランス製の大砲が、討幕側には軍事拠点の造成と映りました。
この回状には「逆謀判然」という文字がありました。謀反の企てが明らかである、という意味です。当時、東山道総督・岩倉具定のもとには、参謀の板垣退助・伊地知正治をはじめ、香川敬三、南部静太郎、西村捨三、大音竜太郎らがいました。草案を誰が書いたのかを記した記録はありません。ただ、いったん紙の上に「判然」と書かれてしまえば、それは確かめるまでもない前提として扱われます。取り調べが行われなかったことの背景には、この四文字があったと共著は見ています。
やましいところはないと考えた小栗は、日記に記したとおり、養嗣子の又一忠道を高崎の総督の陣営へ出頭させます。塚本真彦、沓掛藤五郎、多田金之助を同行させました。武力で応じるのではなく、出向いて説明する。恭順の意思を行動で示したつもりでした。
ところが四人はたちまち捕らえられ、高崎の牢に入れられます。そのうえこの処置を「手ぬるい」と言った者がありました。岩倉具定の麾下にいた原保太郎です。
閏四月五日、東善寺へ戻る
身の危険を感じた小栗は、閏四月三日、母・邦子と妻・道子を会津へ落ち延びさせます。自身も家臣にすすめられて、いったん権田村字亀沢の農家・大井秋次郎方へ身を移しました。
そこへ現れたのが佐藤藤七でした。自ら官軍の陣営へ出向いて申し開きをするのが一番だ、さもなければ又一の命が危うく、権田村の村民一同の命にもかかわる――そう説いたと伝わります。藤七がなぜこの場に現れたのかを説明した記録はありません。
村民の命にかかわると聞いたとき、小栗の腹は決まりました。東善寺で仕度をして、ただちに陣営へ赴く、と答えます。ところが寺へ戻ると同時に、高崎・安中・小幡三藩の兵およそ一千が押し寄せました。申し開きの機会は、ついに与えられませんでした。
水沼河原
六日の早朝、小栗は烏川の川原に引き据えられます。大井磯十郎、荒川祐蔵、渡辺太三郎も同じ場に据えられました。
先に家臣三名が斬られます。共著は、斬られる直前に磯十郎が「無念」と口走り、小栗が静かな語調でそれをたしなめた、と伝えています。
小栗の背後に立ったのは原保太郎でした。撃剣家で、このとき二十二歳です。ただし共著自身が、刃を揮ったのは別人だとする異説もあると付記しています。
縛られたまま座らされた小栗に対し、その両手の下へ木をあてがえという指示が出ました。川原から木片を拾ってきた藩兵が背後にまわったとき、小栗は「無礼者」と叱ったと伝わります。共著はこれを、この世に残した最後の叱咤としています。介錯は一度では済まず、初太刀でも二の太刀でも及ばなかった、とも書かれています。
伝えられる最期の言葉
すでに母と妻を落ち延びさせていたことから、婦女子への寛典を望む旨を述べたと記録されています。一方で「お静かに」という言葉が最期の一言だったとする紹介もありますが、これは日記本文に記された記述ではなく、後世の解説の中で伝えられてきたものである点には注意が必要です。史実として確定した最期の言葉というより、後年に形作られた逸話として受け止めるべきでしょう。
処刑を命じたのは、東山道先鋒総督府の軍監・原保太郎と豊永貫一郎らでした。処刑ののち、「小栗上野、罪悪貫盈……」という趣旨の告示文が、いわゆる天誅として掲げられたと伝わります。その一方で、総督府の名において、残された家族や家臣に対しては赦免する旨の布告も出されており、処断そのものが一貫した方針に基づくものというより、現地の強硬派の判断に大きく左右されていたことがうかがえます。
処刑の報はただちに権田村にも伝わり、東善寺に残っていた人々に大きな衝撃を与えたと伝わります。追われる身となった家族や家臣たちは、悲しみに浸る間もなく、それぞれの逃避行を余儀なくされました。幕閣の要職にあった人物で、戦わずして斬られたのは小栗ただ一人でした。処刑の地である水沼河原には、後年、地元の人々の手によって碑が建てられ、いまも参拝の対象になっています。この処断は、翌日の高崎における養嗣子・又一の処刑へと続いていきます。
典拠:大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年ほか
→ 養嗣子・又一の最期 / 烏川で散った護衛たち / 水沼河原の慰霊碑