2027年のNHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』は、小栗上野介忠順を主人公とする作品です。このページでは、公式に発表されている事実と、ドラマが扱うことになる史実とを、はっきり分けて整理します。前半が発表内容、後半が史料にもとづく小栗の事実です。
発表されていること
作品名 大河ドラマ『逆賊の幕臣』。大河ドラマ第六十六作にあたります。
放送 2027年1月から。小栗が生まれたのは文政十年(1827)二月十二日ですから、生誕二百年の年になります。
主人公 小栗忠順。演じるのは松坂桃李。
脚本 安達奈緒子。大河ドラマの執筆は初めてです。
制作統括 勝田夏子。演出に西村武五郎。
制作発表 2025年3月3日、東京・渋谷のNHK放送センター。
共演 勝海舟役に大沢たかお。ほかの出演者は2025年以降、何度かに分けて発表が続いています(江戸城で小栗が出会う人々が2026年6月23日、小栗家・勝家にゆかりのある人々が2026年8月28日)。
NHKの発表によれば、明治新政府に「逆賊」と見なされて歴史に埋もれた幕臣の視点から幕末を描き、外交戦と情報戦を織り込んだ作品になるとされています。主演の松坂桃李は制作発表の席で、幕臣側という切り口で幕末を見てもらえると思う、と述べました。
一方、放送回数、主題歌・音楽、語り、撮影やロケ地の予定は、本ページの確認時点では公表されていません。以下に挙げる出来事や人物も、ドラマでどこまで、どう描かれるかは公表されていません。ここから先は史実の話として読んでください。
典拠:NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』制作発表(2025年3月3日)/横須賀市「2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』の決定について」(2025年3月5日)/NHKによる出演者発表(2026年6月23日・同年8月28日)。2026年10月6日確認。
「逆賊」とは何だったのか
題名の「逆賊」は、小栗が名乗った言葉でもなく、裁きの結果として与えられた呼び名でもありません。順序をたどると、こうなります。
慶応四年(1868)四月二十二日、東山道総督府は高崎・安中・小幡の三藩へ、小栗追捕を命じる回状を発しました。文面はこうです。
小栗上野介近日、其領地上州権田村に陣屋等厳重に相構へ、加之砲台を築き、不容易企有之趣を諸方注進難聞捨、深く探索を加候処、逆謀判然、上は奉対天朝不埒至極、下は主人慶喜恭順の意に相戻候に付、追捕の儀其藩々へ申附候
「逆謀判然」――謀反の企てが明らかである。この四文字が、すべての前提になりました。宛先は高崎藩主・松平右京亮、安中藩主・板倉主計頭、小幡藩主・松平鉄丸。差出は東山道総督府執事です。東山道総督は岩倉具視の子・岩倉具定で、その膝下には参謀の板垣退助・伊地知正治をはじめ、香川敬三、南部静太郎、西村捨三、大音竜太郎らがいました。草案を誰が書いたのかを記した記録はありません。
阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』は、この文面をこう突いています。「深く探索を加へ候処、逆謀判然」とあるけれども探索の証はない、「判然たる所寸毫だもない。ただ、追捕にいたる文想にすぎない」。そして末尾に「急に尽力有之べき事」と添えられているあたりに、風聞に焦る総督府の姿が見えると書いています。
回状の前提は、現地であっさり崩れました。閏四月一日、三藩の代表が権田村の東善寺に入り、布達の条項を一つずつ照らし合わせます。陣屋はなく、砲台もない。あったのは、観音山で建てかけの住居と、江戸屋敷から持ってきたフランス製の武器だけでした。小栗は報告の根拠にせよと言って、手元の大砲一門と小銃二十一丁をその場で三藩に預けています。三藩は一点の逆謀の跡なきこと明白なりとして引き揚げました。小栗自身も、やましいところはないとして、養嗣子の又一忠道を高崎の総督陣営へ出頭させています。
この日、小栗が三藩の代表に述べた言葉が、大坪指方・穂積驚『小栗上野介』に記録されています。
ここ観音山は古くから小栗家の持林ゆえ、外畑を均らして家の建築にかかっているとは申せ、雨露を凌ぐに足るだけの代物。要害になる程の普請でないことは、すぐさま案内して御覧ねがえれば一目瞭然でありましょう。且逆謀とか陰謀とかを企む者が、屋敷つきで田畑などを拓き、後年の策と致しましょうか。どうか十分に検分を遂げられ、別心を抱く者でないことを御理解頂きます
証拠になる廉を一つでも示してくれれば必ず申し開きをする、とも言い添えています。求めたのは弁明の場でした。それが与えられないまま終わったのが、この一件の芯です。
ところが又一ら四人はたちまち捕らえられ、高崎の牢に投じられます。この処置を「手ぬるし」と言ったのが、岩倉具定の麾下にいた監軍・原保太郎でした。閏四月六日の早朝、小栗と家臣三名は烏川の水沼河原へ引き出され、取り調べを受けることなく斬首されます。小栗は数え四十二歳。阿部道山氏は「何故にかくる公文布達に反し、出先官憲が一回の尋問だに興へず得々として斬首したか」と書き、そもそも追捕の公文は斬首を命じてなどいない――「いかに、大砲があらうと、又陣地を構築した所で斬首せよとは指令しない」――と指摘しています。
そして「逆賊」の名が広く貼られたのは、殺されたあとです。阿部道山氏は、埼玉・大宮の菩提所である普門院で小栗家代々の墓が二十数基倒されたままになっていたことに触れ、罪なくして斬首したうえ官軍は無法な梟首をなし「逆賊の宣伝に是れ努めた」、そして「村民はこの誤つた宣伝を信じた」と記しています。昭和に入ってからも、小栗の旧領の人々が彼を逆賊と聞かされていたことに、阿部氏自身が閉口したと書いています。
名が剥がれるまでには半世紀かかりました。大正四年(1915)九月二十七日、横須賀海軍工廠開設五十年の記念祭にあたり、工廠長の海軍中将・黒井悌次郎が、従来世に伝えられた反逆の跡は更になし、朝敵とは何事ぞや、却って国家の大功臣なりとして、小栗の功績を顕彰する公文書を発表しています。つまり「逆賊」とは、史実の判定ではなく、追討のために書かれ、殺害のあとに広められた名でした。題名はその名を指しています。
顕彰は寺にも及びました。小栗家の菩提所である大宮の普門院の境内には、徳川家達の題字による「小栗上野介招魂碑」が建てられ、その陰記を蜷川新が書いています。「開国は興国である。幕府が開国を断行せるは愛国である」と始まり、小栗については、最初の遣外使節として米国に使して国命を全くし、財政・貿易・殖産・外交・国防の国策は彼によって創始された、「彼は真に愛国忠誠の人である」と刻まれました。封建を廃して郡県となす大略を抱いた当代第一の先覚者である、とも記しています。
典拠:阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年/『小栗日記』群馬県史料集第七巻/大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年/『倉渕村誌』
→ 四月二十二日の追捕回状と三藩の出兵 / 閏四月六日、水沼河原の最期 / 大正四年、横須賀での名誉回復
ドラマが扱うことになる出来事
小栗が表舞台に立っていたのは、万延元年の帰国から慶応四年までの八年ほどです。そのあいだに勘定奉行、江戸町奉行、歩兵奉行、陸軍奉行、海軍奉行などを兼職を含めて務め、「またも小栗のお役替え」と城坊主に軽口を叩かれました。主な節目を並べます。
安政七年(万延元年・1860)一月十八日 遣米使節、品川沖を出帆 正使・新見豊前守正興、副使・村垣淡路守範正、目付・小栗豊後守忠順ほか総計七十七人がポーハタン号に乗り込みました。三月二十五日ワシントン着、四月三日に条約批准書を交換。そこで見た合衆国海軍のワシントン海軍工廠が、のちの横須賀につながります。
→ 出帆 ワシントン 造幣局での交渉 トミー文久元年(1861) 対馬事件 ロシア軍艦ポサドニック号が対馬・芋崎に居すわり、兵舎を築いて測量を始めます。外国奉行の小栗は四月六日に品川を発ち、五月に艦上で三度の談判。実力で動かない相手に対し、対馬の直轄化と海軍力の整備を上申しますが容れられず、七月二十六日に外国奉行を辞しました。三十四歳でした。
→ 対馬事件元治元年(1864)十二月 横浜の立ち話 街角で栗本瀬兵衛(鋤雲)を呼び止め、佐賀藩献納の機械をどう使うかを持ちかけます。栗本は「ドックの名さえ初めて聞いた」と手記に書きましたが、小栗の側には四年前に歩いた工廠の記憶がありました。
→ 栗本鋤雲との出会い慶応元年(1865)九月二十七日 横須賀製鉄所の鍬入式 技師長はフランス海軍のヴェルニー。「製鉄所」とは鉄を扱う総合工場のことで、のちの横須賀造船所です。ここで築かれたドライドックは、今も現役で使われています。
→ 横須賀製鉄所 ドック 横浜仏語学所慶応三年(1867)四月 兵庫商社の建議 「兵庫御開港に付、商社取建て方並御用途金見込之儀、申上候書付」。小栗はここで「コンペニー」の語を使っています。六月五日、大坂の富商二十名が京都の旅館に集められ、鴻池屋・加島屋・平野屋らを役員として兵庫商社が設立されました。
→ 兵庫商社 三野村利左衛門慶応四年(1868)正月十三日 江戸城の大評議 鳥羽・伏見の敗報のあと、小栗は朝五ツ時過ぎに登城し、退出は夜八ツ時――十六時間の議論でした。主戦論を説いて慶喜に迫りますが、容れられません。
→ 十六時間の評議 大政奉還同年正月二十八日 権田村への土着願書 知行地を返納して上野国群馬郡権田村に土着し、農兵を組織して報効の一端としたいという願いでした。二月二十八日に江戸を発ち、三月朔日の夕刻、権田村の東善寺に到着します。
→ 土着願書と権田行き同年三月~四月 観音山の普請と小高用水 三月六日に始まった屋敷の普請は五十二日目の四月二十八日に上棟。近隣の小高集落のためにフランス式測量で引いた用水は、小栗の死後に完成し、今も使われています。三月三日には「小栗征伐」を称する暴徒が三ノ倉に押し寄せ、又一らが撃退しました。
→ 観音山 三ノ倉の戦い
史実の小栗に関わった人々
ここに挙げるのは、史料のなかで実際に小栗と関わった人たちです。
家族 母は邦子(国子と記す史料もあります)。妻の道子は播州林田藩主・建部内匠頭政醇の女で、天保十年(1839)生まれ、小栗とは十二歳違いです。養嗣子が又一忠道、養女が鉞子。遭難のあと、身重の道子を中心とする一隊と、母・邦子と鉞子の一隊が二手に分かれ、後者は善光寺参りの道者に変装して権田を脱し、会津で再会しました。慶応四年六月十四日、会津城下で生まれた女児が国子です。祖母の名をとったものと見られ、大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』はこの人を「小栗家唯一ノ血統」と記しています。
→ 会津への逃避行 国子 道子との結婚
仕事の仲間 栗本鋤雲は幕府御殿医の子で、箱館を経て幕政に戻った異色の幕臣。横須賀の計画を小栗とともに進めました。ヴェルニーはエコール・ポリテクニック出身のフランス海軍技師で、製鉄所の技師長。三野村利左衛門は小栗屋敷に住み込んだ奉公人から三井の大番頭となった人で、権田行きの直前にも二月四日・十四日・二十日・二十四日と四度、小栗家を訪ねています。武笠祐左衛門は父・忠高の代からの筆頭用人。遣米使節の一行には、咸臨丸の司令官木村喜毅と、その従者だった福澤諭吉もいました。
→ 栗本鋤雲 ヴェルニー 武笠家 木村喜毅 福澤諭吉
勝海舟 文政六年(1823)生まれで小栗より四歳年長。二人とも直心影流・男谷精一郎の道場から出ています。幕末の政策では終始かみ合わず、阿部道山氏は、小栗に対して「逆賊の名さへ強ひて用ひた」風潮の一因が勝の言葉にあったと見ています。
→ 勝海舟
原保太郎 東山道先鋒総督府の監軍。権田村で小栗を捕らえ、処刑を指揮しました。丹波篠山の貧しい武士の家に生まれた撃剣家で、権田に向かったときまだ二十二歳だったと本人が語っています。
→ 原保太郎 大隈重信 普門院を訪れた人々
舞台を訪ねる
ゆかりの地は、群馬(最後の日々と墓所)、横須賀(仕事の跡)、東京(生まれ育った場所)の三つに分かれます。
群馬県高崎市倉渕町には、小栗が権田村で暮らし、いま菩提寺となっている東善寺があります。境内に墓所と遺品の展示。処刑の地である水沼河原には顕彰慰霊碑が建ち、碑文は「偉人小栗上野介 罪なくして此所に斬らる」。昭和七年(1932)五月五日の除幕で、撰と揮毫は道子夫人の甥にあたる国際法学者・蜷川新です。東善寺から一キロほど下手の台地が観音山の屋敷跡で、礎石と用水路が残っています。
横須賀ではヴェルニー公園に小栗とヴェルニーの胸像が並び、大正十一年(1922)九月、彫刻家・朝倉文夫の手で除幕されました。同じ公園内のヴェルニー記念館に、製鉄所で使われたスチームハンマーが展示されています。東京では、生まれた神田駿河台の屋敷跡と、雑司ヶ谷霊園の小栗家の墓。
拝観時間・料金・休館日は変わりますので、訪ねる前に各施設の公式ページでご確認ください。
放送に備えて読むなら
小栗という人物をひととおり知るには、小栗上野介とはから読むのが早道です。そのうえで原典に向かうなら、坂本藤良『小栗上野介の生涯』、阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』、大坪指方・穂積驚『小栗上野介』、そして『小栗日記』。それぞれの性格と入手のしかたは本で読むと史料をたどるにまとめました。放送が近づいたら、記事一覧も手がかりにしてください。