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日本最初の株式会社、兵庫商社の設立

身分を問わず出資でき、配当を受け、払い戻せる。兵庫商社の組織の中身を見ていきます。

兵庫商社の設立そのものの経緯は、この章の冒頭でご紹介したとおりです。ここでは、その建議書の中身、組織の骨格、そして周囲に与えた衝撃について、もう少し詳しく見ていきます。

建議書に書かれていたこと

小栗が兵庫商社の創立を建議したのは慶応三年(1867)四月。坂本龍馬が海援隊を組織したのと同じ月にあたります。建議書の表題は「兵庫御開港に付、商社取建て方並御用途金見込之儀、申上候書付」といいました。

冒頭で小栗は、開港場の現状をこう述べています。商人たちが一己の利益のみを貪り、薄元手の者どうしが競って取引するようでは、元手の厚い外国人に利権を握られてしまう。横浜の商人がそうであるように、今日わずかに千金の利があっても、明日ただちに一万両の損失が出るのは、商人が組合を作らず、めいめい勝手に取引しているからだ、と。こう続けます。

右は、商人一己の損失ばかりの様に相見え候えども……すなわち御国の損失に相成り、ついに全国の利権を失し、外国商人のために蔑視され、西洋商人のために東洋において貨殖の地を与る儀にて、実に歎息の次第にござ候

幕府の損得ではなく「御国の損失」を憂えている点に、小栗の立ち位置がよく表れています。その対抗手段として挙げられたのが、大資本による会社の設立でした。小栗はここで「コンペニー」という語を使っています。日本の公文書にこの言葉が現れたのは、これが最初であろうと坂本藤良氏は指摘しています。海援隊の陸奥宗光が同じ語を使うのは、これよりやや遅れてのことです。

建議書にはさらに、この商社の利益でガス灯を設け、書信館(郵便局)を開設してはどうかという提案も含まれていました。なお渋沢栄一の『徳川慶喜公伝』は、小栗が鉄道の敷設まで提案したと記していますが、建議書そのものに鉄道の文言はありません。

百万両の金札と二十人の大坂商人

具体的な設立の手順は、次のようなものでした。大坂町人のうち身元のよい者を二十人ほど選び、兵庫開港場の交易商人頭取を申し渡す。その二十人が組合を作って取引し、望む者はその組合に加わる。ただ御用を申し渡すだけでは、利益を生業とする商人が応じるはずもない――そう見抜いた小栗は、彼らに百万両の金札発行を許すことで、商人自身の利益になる仕組みにしようとしました。

  • 一両の札 十万枚=十万両

  • 十両の札 一万枚=十万両

  • 五十両の札 二千枚=十万両

  • 百両の札 七千枚=七十万両

小栗は、この金札発行を三年後には政府発行に切り替えるべきだと考えていました。商人に利益を与えなければ金は集まらないという発想は、のちに官軍側で財政を担った三岡八郎(由利公正)の考え方とも共通しています。

役員構成と出資の仕組み

建議を受けて幕府が動き、慶応三年六月五日、大坂の富商二十名が京都の旅館に集められ、彼らを役員として兵庫商社が設立されました。名を連ねたのは、鴻池屋の山中善右衛門、加島屋の広岡久右衛門と長田作兵衛、米屋の殿村平右衛門と石崎喜兵衛、炭屋の白山彦五郎、辰巳屋の和田久左衛門、平野屋の高木五兵衛、千草屋の平瀬亀之輔といった面々です。

もっとも、大坂の富商はもともと外国貿易の経験がなく、進んで参加する気がありません。そこで六月十四日、あらためて彼らを招集し、小栗の意を体した嘉納次郎作が商社設立の必要を説きました。その演説で示された骨格は、次のようなものです。

  • 一、役職 頭取・肝煎・世話役という三段階の役員を置き、それ以外の出資者は〈社中〉を構成しました。

  • 一、出資資格 「武士、町人、百姓の差別なく、有余の金を以て右の商社へ加入せしむべき見込」と明言されています。

  • 一、配当 「利益は出資額に応じて之を配当し」――この一句は八月十七日にも重ねて強調されました。

  • 一、払戻し 「出資者中急に金銭の必要ある場合には、何程にても払戻すべし」。

身分を問わず出資でき、出資額に応じて配当を受け、必要なら払い戻せる――これは現在の株式会社の基本的な仕組みとほぼ重なります。坂本藤良氏は、この兵庫商社を日本最初の株式会社と位置づけて評価しています。

役員はその後も補強されました。七月十二日に世話役八名が加わり、九月六日には天王寺屋の大眉五兵衛が〈頭取助〉に、鴻池屋新十郎・天王寺屋忠兵衛・住友吉左衛門ら六名が〈世話役助〉に、十月には兵庫の北風荘右衛門が〈肝煎〉に加わっています。難航したのは三井でした。小栗は三井八郎右衛門に頭取就任をすすめましたが、〈江戸横浜御金札御引替御用〉をはじめ多くの御用を務めているという理由で躊躇し、強く勧めて八月にいったん就任したものの、その後辞任しています。

商社の事務所は〈商社会所〉と呼ばれ、大坂の中之島に置かれました。役員はそこへ出勤しましたが、自分ではなく手代を出勤させる者も多く、月番で一ヵ月交替としています。兵庫開港後は、兵庫運上所も商社の事務所となりました。

薩摩・海援隊に走った衝撃

幕府側がこれほど本格的な会社組織を大坂で立ち上げたことは、薩摩藩や海援隊に一大衝撃を与えました。特別に重要な事項しか記録しない『海援隊日史』に兵庫商社の件が詳しく書き込まれていることが、その驚きの大きさを示しています。

五代友厚ら薩摩の人々は、「薩摩商社」の設立をもって対抗しようとしました。五代がかねて構想していた「諸大名同志合力の商社」に近いものです。さらに西郷隆盛は、英国公使パークスに対し、兵庫商社はイギリスの貿易利潤を失わせることになるとけしかけ、これを受けたパークスが老中を居丈高に怒鳴りつけて兵庫商社に反対する、というひと齣まで生じています。海援隊の組織変更も薩摩商社の設立計画も進みませんでしたが、兵庫商社のほうは着々と進行していきました。

その兵庫商社が本格的な活動を開始しようとしたとき、政治情勢が一変します。将軍慶喜による大政奉還です。しかし構想そのものは消えませんでした。三野村利左衛門や渋沢栄一の手で、明治二年二月に三井八郎右衛門を〈総頭取〉とする「東京貿易商社」が設立され、同年五月に「東京為替会社」、七月に「東京通商会社」へと改組されていきます。東京貿易商社の役員は総頭取・頭取・肝煎・世話方、それ以外の出資者は社中、役員は月番交替――兵庫商社そのままの姿でした。その設立趣意も、兵庫商社の建議書の冒頭と読み比べれば、同じ精神が受け継がれていることが分かります。

幕府と雄藩の双方が、ほぼ同時期に会社組織による商業振興を志向していたという事実は、幕末という時代そのものの転換点をよく表しています。→ 坂本龍馬の海援隊との対比 / 三野村利左衛門

(出典:坂本藤良『「兵庫商社」を創った最後の幕臣 小栗上野介の生涯』講談社、1987年)