小栗上野介とは何をした人か
小栗上野介忠順(おぐり こうずけのすけ ただまさ、1827–1868)は、幕末の幕臣です。万延元年(1860)の遣米使節に目付として加わり、一行は日本人として初めて世界を一周しました。帰国後の八年間に、横須賀製鉄所(のちの横須賀造船所)の建設、洋式陸軍の創設、日本最初の株式会社「兵庫商社」の設立を実行します。慶応四年(1868)正月、江戸城の評議で主戦を説いて将軍から直々に罷免され、知行地の上野国権田村へ移り、同年閏四月六日、取り調べを受けないまま烏川の河原で斬られました。数え四十二歳でした。
目付・外国奉行・江戸町奉行・歩兵奉行・陸軍奉行並・軍艦奉行を歴任し、勘定奉行には四度任じられています。ひとことで言えば、幕府が倒れたあとも使える仕掛けを残した人です。「幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命には限りがない」という言葉が記録に残っています(『同方会報告』明治二十九年第一号)。
「逆賊」は、殺されたあとに貼られた名です。処刑の根拠とされた「権田村に陣屋を構え砲台を築いている」という報告は、命令を受けた三藩が検分して事実無根と結論しました。それでも斬首は実行されたのです。
生い立ち ― 駿河台の旗本の家に生まれる
文政十年(1827)二月十二日の早朝、江戸・神田駿河台の屋敷で生まれました。幼名は剛太郎。小栗家は二千五百石の直参旗本で、旗本の大半が百石から五百石取りだった時代の上位にあたる家格です。父の又一忠高は小栗家の生まれではなく、隣家の旗本・中川飛驒守忠英の四男から養子に迎えられた人でした。
天保五年(1834)から通った塾は、小栗屋敷の長屋の中にありました。当時一流の学者安積艮斎の塾です。ここで忠順は五歳年上の栗本瀬兵衛(のちの鋤雲)と知り合います。兄弟のいない少年にとって、生涯ものの出会いでした。剣術は直心影流の男谷下総守信友に学んでいます。顔には疱瘡の跡が一面に残り、小柄で近眼。それでも栗本は、幼い日の忠順を群童の頭に立つ餓鬼大将だったと語りました。
弘化四年(1847)、「芸術出精の事」を理由に部屋住から召し出され、西丸御書院番となります。旗本の子弟から優秀な者を抜擢する登龍門の人事です。妻は播州林田一万石・建部家の道子。安政二年(1855)十月に家督を継いで十二代当主となり、安政六年(1859)九月、目付に任じられた翌日、遣米使節への随行を命じられます。
遣米使節 ― 日本人として初めて世界を一周する
万延元年(1860)正月、日米修好通商条約の批准書交換のため、正使・新見豊前守正興、副使・村垣淡路守範正、目付・小栗豊後守忠順を中心とする総勢七十七人が品川を発ちました。本隊が乗ったのはアメリカ海軍のポーハタン号です。咸臨丸は護衛のために同行した別船で、サンフランシスコから引き返しており、ワシントンには行っていません。閏三月二十八日にブキャナン大統領へ国書を奉呈し、四月三日に批准書を交換します。証書には「日本大君の使節兼全権 新見豊前守 村垣淡路守 小栗豊後守」と記されました。阿部道山氏はこれを、小栗が正式の全権の一人であった証としています。
フィラデルフィア造幣局の天秤ばかり
小栗にはもう一つ、重い任務がありました。通貨交換比率の交渉です。海外では金と銀の比価が一対一五。ところが日本では幕末には一対六になっていました。ハリスが一ドル銀貨一枚=一分銀三枚と決めさせたため、銀貨を持ち込んで小判に替え、本国で銀に戻すだけで三倍になる。流出した金貨は、低く見積もる説で五〇万両、高く見積もる説では一〇〇〇万両といわれます。
小栗が持参したのは、小判三枚と一挺の天秤ばかりでした。象牙の竿に目盛りが刻まれ、実験しても一分の狂いもない。日米合同の分析は小栗の要求で予定を大幅に超過し、翌日になっても終わりません。幕府から正式の交渉命令が出ていないことを理由に反対する者もありましたが、小栗はこう言いきりました。
責任は君たちには負わせない。いっさい、自分ひとりが負う
帰路は来た道を戻らず、ナイヤガラ号で喜望峰、バタビア、香港を経て邦暦九月二十七日に品川沖へ入ります。四か月半の船上で、小栗は為替と貨幣についての長大な報告書をまとめました。帰国後、二百石を加増され、同年十一月に外国奉行となります。
対馬事件 ― 力の裏づけのない外交の限界を知る
万延二年(1861)二月三日、ロシア軍艦ポサドニック号が対馬の芋崎に投錨しました。艦長はビリレフ。「船の修復のため」と称しながら船体に破損はなく、兵は上陸して兵舎を築きます。やがて「大砲五〇門を献上するかわりに芋崎一帯を租借したい」と持ちかけ、四月十二日には大船越で対馬藩の役人を射殺しました。
幕府は外国奉行の小栗を派遣します。品川を発ったのは文久元年四月六日、三十四歳のときです。五月十日から三度にわたって艦上で談判しますが、実力で居すわる相手に現地の交渉は動きません。五月十九日に打ち切り、帰府して上申したのは、対馬を幕府の直轄地(天領)とすること、対露交渉は正式の外交ルートで行うことの二点。幕閣はこれを容れず、小栗は七月二十六日に外国奉行を辞任します。ロシア艦が去ったのは、イギリス東洋艦隊が抗議したあと、八月二十五日でした。
この交渉は当時も後世も「失敗」と評されてきました。ただ坂本藤良氏は、ここを小栗の第二の開眼と見ます。軍艦を退去させられる実力がなければ、同じことは何度でも起きる。以後の情熱は、造船所、財政、貿易商社、そしてそれらを支える教育へ集中していきます。
横須賀製鉄所 ― いまも動いているドック
名前は「製鉄所」ですが、鉄を製錬する施設ではありません。当時の言葉で、鉄を扱う総合工場という意味です。話が動いたのは元治元年(1864)十二月、横浜の街角でした。幕府の所有艦・翔鶴丸の破損をフランス人技師が六十日あまりで直したのを見た小栗が、馬を下りて栗本鋤雲を呼び止めたのです。栗本は「ドックの名さえ初めて聞いたほど」でしたが、その夜のうちに二人でフランス公使館を訪ねました。小栗が説いたのは費用の話です。買った船は必ず壊れる、故障のたびに外国へ運んでいたら費用だけでも馬鹿にならない――。
元治元年十一月十日、幕閣が建設を決定します。江戸湾の測量を経て、候補地は長浦湾から隣の横須賀湾へ変わりました。当時の横須賀村は戸数二十二戸の漁村です。波が穏やかで水深が約二十メートルあり、ドックに適した岩盤がある。技師たちは母国のツーロン港に似た地形だと推し、設計はその三分の二の面積を基礎に、四か年で二百四十万ドルをかける計画になりました。
慶応元年三月十二日 敷地七万四千三百六十坪を決定。建坪は合計七千八百五坪、建築費は二十二万六千両の見積り。
慶応元年九月二十七日 鍬入式。技師長はフランス海軍技師ヴェルニー。翌年十月には雇フランス人が四十三名となる。
慶応三年三月 第一船渠の開鑿に着手。明治元年四月に新政府へ引き渡され、翌五月、わが国で初めての修船台が竣工する。
反対は渦巻きました。ある幕臣が「費用をかけて造っても、出来上がるころ幕府はどうなっているかわからない」と言ったとき、小栗は居ずまいを正して答えたと記録されています。
幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命には限りがない。幕府のしたことが長く日本のためとなって、徳川のした仕事が成功したのだと後に言われれば、徳川家の名誉ではないか。国の利益ではないか。
家具を残したまま家を売る「売据」にたとえて、「同じ売据にしても、土蔵付き売据のほうがよい」と言いました。政権は新しい家主に渡る、それなら蔵付きの家にして渡そう、という意味です。
単なる造船所と違っていた点が四つあります。あらゆる工業製品を作れる総合工場であること。初めから蒸気機関で動く設計であること。慶応二年から技術伝習学校を置いて技師と職工を育てたこと。そしてフランス人技師の慣行に合わせるうちに、定時労働・日曜休日・月給・複式簿記が根づいたことです。
明治八年三月五日、ここで建造された軍艦「清輝」が進水します。鍬入れから十年。計画した本人も発注した政権も消えたのに、工場は残って艦を生みました。
日本初の株式会社「兵庫商社」と、経済の仕組みづくり
慶応三年(1867)四月、兵庫開港を前に、小栗は「兵庫御開港に付、商社取建て方並御用途金見込之儀、申上候書付」を提出します。出資を募って事業を起こし、利益を出資者に配当する――いまでいう株式会社です。
問題にしていたのは、外国商人の前貸し支配という商法です。最初は高く買い、買い付けが増えると買い渋って安く叩き、日本人同士を安売り競争に追い込んだところで資金を前貸しし、意のままに操る。小栗はこれを「商人一己の損失ばかりの様に相見え候えども……すなわち御国の損失に相成り」と書きました。幕府の損得ではなく「御国の損失」を憂えているところに、この人の立ち位置が出ています。ここで使った「コンペニー」は、日本の公文書に現れた最初の例であろうと坂本藤良氏は指摘しています。
慶応三年六月五日、幕府は大坂の富商二十名を京都の旅館に集め、兵庫商社が設立されます。鴻池屋の山中善右衛門、加島屋の広岡久右衛門といった面々です。頭取・肝煎・世話役の三段階の役員を置き、それ以外の出資者が〈社中〉を構成しました。
出資資格 「武士、町人、百姓の差別なく、有余の金を以て右の商社へ加入せしむべき見込」。
配当 「利益は出資額に応じて之を配当し」。
払戻し 「出資者中急に金銭の必要ある場合には、何程にても払戻すべし」。
身分を問わず出資でき、出資額に応じて配当を受け、必要なら払い戻せる。現在の株式会社の基本とほぼ重なります。坂本藤良氏はこれを日本最初の株式会社と位置づけました。幕府側が本格的な会社組織を立ち上げたことは薩摩藩や海援隊に衝撃を与え、五代友厚らは「薩摩商社」で対抗しようとしています。
兵庫商社そのものは、大政奉還と鳥羽伏見の敗戦を経て半年ほどで解散しました。しかし仕組みは残ります。明治二年に設立された「東京貿易商社」は、役員が総頭取・頭取・肝煎・世話方、それ以外は社中――兵庫商社そのままの姿でした。
洋式陸軍の創設とフランス軍事顧問
文久二年(1862)十二月一日、小栗は初代の歩兵奉行に任じられ、五日後には勘定奉行勝手方を兼任させられます。軍の近代化には財源が要り、それを工面できる人間がほかにいなかったからです。採用を決めたのは、歩兵・騎兵・砲兵を柱とする洋式三兵制度。坂本藤良氏は、これが明治日本の軍隊組織の基礎になると書いています。
ただしこの段階の実体は乏しく、教本は訳本『三兵タクチーキ』一冊きり。三年後、小栗自身が栗本鋤雲にこぼしています。騎兵はただ馬術をやっているだけ、砲兵も歩兵も訳本と首っぴきであて推量でやっているだけだ――。この不満が、慶応二年十一月十九日の陸軍伝習所(横浜太田陣屋)開設につながります。
財政と軍政を一つのものとして扱う姿勢は、兵賦金に行き着きます。旗本に石高に応じて兵と費用の両方を出させる仕組みで、慶応三年九月、万石以下二百石以上を対象に実施されました。福地源一郎は『幕末政治家』に、小栗はこれによって「数大隊の歩兵を組織し、遂に徴兵制度の基礎を建てたり」と書いています。
勝海舟との分かれ道 ― 恭順か抗戦か
勝海舟(麟太郎)は小栗より四歳年長で、勝家の禄高は四十一石余、小栗家は二千五百石。二人はともに男谷精一郎の道場に縁があり、坂本藤良氏は少年時代のどこかで剣を競った可能性が濃厚だとして「奇縁」と呼びました。経歴は不思議なほど正確に入れ替わります。文久三年四月二十三日、小栗が辞任した日に勝は神戸海軍操練所の設立を許され、元治元年十一月十日、勝が軍艦奉行を免職になった同じ日に小栗の横須賀製鉄所の建設が許可されました。
慶応二年五月、大坂出張の前日、小栗は勝に幕府の機密を打ち明けます。幕府のもとに郡県制度を立て、フランスから銀六百万両と軍艦数艘を借り受けるという計画です。その場で勝は反論しませんでしたが、大坂に着くと老中たちに激しい小栗批判を展開しました。『海舟日誌』には「地を質して、払郎西より……金幣を借る」とあります。坂本藤良氏は、この「国土担保説」が明治以降の小栗像を固定させたと見ています。
慶応四年正月、江戸城の大評議
鳥羽・伏見で敗れた将軍・慶喜が江戸へ戻ったのは慶応四年正月十二日。その夜、役人一同が芙蓉の間に召し出され、泣く者、怒る者、わめく者が入り乱れて議論は深更に及びました。そのあいだ、小栗ひとりは感情を面に出さなかったといいます。日記は翌十三日をこう記すだけです。「五ツ時過登城、夜八ツ時退出致ス」。退出は翌日の午前二時。十六時間の評議でした。
この席の重役たちは、誰一人として相手を官軍とは思っていません。薩長の私兵と心得ていたので多数は主戦論でしたが、堂々と論陣を張って慶喜に迫る者はいない。そこへ膝を進めたのが小栗です。箱根の関門を開いて東征軍を江戸へ入れ、そのうえで箱根を閉じ、木曾路も塞いで袋の鼠にする。軍艦の半分で駿河を扼し、残る半分で摂海を衝く――具体的な作戦をともなう献策でした。
大坂にいたときから恭順を決めていた慶喜は、席を立って奥へ入ろうとします。小栗はその袴の裾を握って離しませんでした。そして正月十五日、罷免を言い渡されます。権田村の塚越真一家に伝わる文書は「幕府二百六十年間将軍の直語に由て職を免ぜられしものは唯彼のみ」と書き留めています。
どちらが正しかったのかを、本サイトは決めません。勝も『海軍歴史』で横須賀については「亦深く嘉尚すべし」と書いています。
権田村への土着 ― 最後の六十四日
罷免から十三日後の正月二十八日、小栗は知行所である上野国群馬郡権田村への土着願書を差し出します。采地を返納したうえで土着し、農兵を組織して報効の一端としたいという中身でした。回答は翌二十九日。土着を仰せ付けられ、農兵の取り立ても認められ、しかも自ら申し立てた知行地の返納は「及ばず」と申し渡されます。多くの幕臣が知行地を失っていくなかでの、異例の扱いでした。
権田村の村高は三百七十五石。知行地には、下野国足利郡の高橋村のように千三百五十四石あって交通の便もよい土地がありました。なぜ山間僻地だったのか。『群馬県史』第三巻は、江戸を発つ前夜に彰義隊の渋沢成一郎へ語ったという言葉を載せています。東北諸藩を糾合して戦っても大義名分がなく勝算はない。恐ろしいのは、騒乱の収まったあとに強藩どうしが争い、その隙に外国がつけ込むことだ――。
江戸を去る前、三野村利左衛門が四度、小栗家を訪ねています。蜷川新『維新正観』によれば、三野村は千両箱を差し出してアメリカへの亡命を勧めました。小栗はこれを辞退し、「もしも後年婦女子の困厄する折があったならば、その時は何分宜しく頼む」と答えたと伝えられます。
出立は二月二十八日。桶川、深谷、高崎と泊まり、三月一日の夕刻、権田村の東善寺に着きます。一行は家族と家臣あわせて約三十名、家財十箱。大砲と小銃、弾薬も携えていました。この日から斬られる閏四月六日まで、六十四日です。
到着から三日後、小栗が軍用金を味噌樽で運び込んだという噂が立ち、「小栗征伐」と称する集団が三ノ倉から押し寄せました。三月四日、小栗は養嗣子の又一とともに家来・歩兵・村の猟師ら百人余を五手に分けて迎え撃ちます。襲撃側は三方からおよそ二千人。上宿と鎮守前に火を放ちましたが、伝習所仕込みの散兵戦術の前に散り散りになりました。幕府の要職にあった人物が指揮した、最後の戦いです。
戦いの二日後から、小栗は観音山の普請にかかります。四百坪を平地にし、小いたつ沢から水を引く道筋を見て回る。持参した三千両のうち千六十両を、この居宅の経営に投じました。学校を作る構想も語られています。普請は五十二日目の四月二十八日に一棟目の上棟を迎え、小栗はその日の昼過ぎに普請場へ出向きました。観音山へ登った最後の日です。
水沼河原 ― 取り調べのない斬首
四月二十二日、東山道総督府から高崎・安中・吉井の三藩へ、小栗追捕を命じる回文が発せられました。権田村に陣屋を構え砲台を築いている――という前提で書かれた命令です。そこには「逆謀判然」の四文字がありました。紙の上に「判然」と書かれれば、確かめるまでもない前提として扱われます。
四月二十九日、三藩は心ならずも兵を繰り出しました。閏四月一日、代表が東善寺で小栗と対面します。小栗の答えは記録に残っています。観音山はかねてから自分の持ち林で、建てたのは雨露をしのぐまでの家作にすぎない。すぐ案内させるから目で見てほしい。そもそも陰謀を抱く者が、屋敷のまわりに田畑を開いて後年の生計を立てようとするものだろうか――。根拠がほしいと求められると、小栗は手元の大砲一門と小銃二十一丁をそのまま預けました。検分の結果、陣屋もなく、砲台もなく、謀叛の形跡は何一つありませんでした。
翌二日、又一は総督府に直接弁明するため高崎へ向かい、四日に着くとそのまま石上寺に幽閉されます。小栗は閏四月三日の夜、母・邦子と妊娠六か月の妻・道子、養女の鉞子を会津へ落ち延びさせました。自身も陣営へ出向いて申し開きをするほかない、さもなければ又一と村民一同の命にかかわると説かれ、腹を決めます。ところが東善寺へ戻ると同時に、三藩の兵およそ一千が押し寄せました。
閏四月六日(西暦1868年5月27日)、小栗忠順は家臣の大井磯十郎・渡辺太三郎・荒川祐蔵とともに烏川の水沼河原へ引き立てられ、一度の取り調べも審問もないまま斬首されました。縛られたまま座らされた小栗に、両手の下へ木をあてがえという指示が出ます。川原から木片を拾ってきた藩兵が背後にまわったとき、小栗は「無礼者」と叱ったと伝わります。背後に立ったのは撃剣家の原保太郎、二十二歳。刃を揮ったのは別人だとする異説もあります。
翌七日の午後、高崎の牢屋敷で、又一と塚本真彦ら三名が斬られました。白洲へ引き出されたものの、待たされただけで取り調べはありません。塚本真彦が「我等に対する何等の取調べも、又ただ一回の審問もなく叛逆明白なりという宣告は理不尽ではないか」と抗議すると、又一は「この期に及んで無益の言を言うでない」と戒めたと伝わります。又一は二十一歳。幕閣の要職にあった人物で、戦わずして斬られたのは小栗ただ一人です。
死後 ― 遺族のその後と、名誉回復までの道
権田を出た家族は二手に分かれて潜行しました。母・邦子の組は善光寺参りの道者に変装して渋峠を越え、身重の道子の組は弁天峠を越える秋山郷越え(謙信越え)を選びます。道子を運んだのは、村で病人を医者へ運ぶために備えてあった山駕籠でした。越後の堀之内で合流した一行は路銀が尽き、新潟を経て阿賀野川を遡り、会津へ。慶応四年六月十四日、会津城下で女子が生まれます。大坪元治氏が「小栗家唯一ノ血統」と記した国子(クニ子)です。
同年九月に会津城は落ち、護衛の佐藤銀十郎と塚越富五郎は籠城中に戦死しました。一行は明治二年二月まで東北にとどまり、ようやく江戸へ辿りつきます。ここで手を差し伸べたのが、かつて小栗家の渡り仲間から身を起こし、このとき三井の支配人となっていた三野村利左衛門でした。館林に預けられていた父子の首級も、中島三左衛門ら権田と旧領の人々が明治二年四月六日の夜に取り戻しました。
家は、又一の弟にあたる駒井悌四郎が明治二年に家名相続を許されて第十三代となり、明治二十年十二月十日、数え二十歳の国子が矢野貞雄を婿に迎えます。媒酌は大隈重信夫妻でした。
名誉回復は、四十七年後に始まった
明治の学校教育は、小栗の業績を教科書に載せませんでした。「日本の近代化は明治以後」という筋書きに、幕府が建てた造船所は収まらないからです。明治四年十一月、明治天皇が横須賀造船所に行幸して海軍史上最初の勅語を下したときも、発案者の名はどこにも出ていません。
大正四年(1915)九月二十七日 横須賀海軍工廠創立五十周年にあたり、工廠長・海軍中将黒井悌次郎が船廠創設の由来を記した公文書を発表。海軍当局が公表した文書としては、これが最初でした。処刑から四十七年が経っていました。
昭和七年(1932)五月五日 処刑の地・水沼河原に慰霊碑。碑文「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」は、道子夫人の甥にあたる国際法学者・蜷川新の撰・揮毫です。
昭和二十七年(1952)九月二十七日 横須賀・塩見公園で胸像の除幕式。フランス大使と米軍基地司令官が列席し、仏海軍儀仗隊の礼式のもとで行われました。講和後、国際儀礼の形式による除幕式はこれが最初でした。
明治四十五年の夏には、東郷平八郎が遺族を自邸に招き、日本海海戦に完勝できたのは小栗が横須賀造船所を建設しておいてくれたからだと礼を述べ、「仁義礼智信」の書を贈りました。
小栗上野介をめぐる評価
生前の評価は明快でした。福地源一郎は、岩瀬忠震・水野忠徳と並べて小栗を「幕末の三傑」と呼び、遣米使節の帰朝後「小栗ひとりだけは、だれに遠慮することもなく、アメリカの文明のすぐれた点を説明し……老中などを驚かせた」と書きました。
死後に広まった像は、まったく別です。眼中に徳川家しかない狭量な男、フランスに日本を売ろうとした売国奴、徳川の財宝を赤城山の麓に埋めた守銭奴――これが貼られたレッテルでした。坂本藤良氏は、その一因として「政敵、勝海舟が、明治もよほどあとになってから語ったり書いたりした小栗忠順観」を挙げます。小栗は四十二歳で死に、勝は七十七歳まで生きて語り続けました。
いま小栗を高く評価する議論は、二つの筋をとります。一つは、造船所と会社制度と陸軍の編成が、政権の交代をまたいでそのまま使われたという事実です。大隈重信が「明治の近代化はほとんど小栗上野介の構想の模倣に過ぎない」と語ったと伝えられるのは、この一致を指します。もう一つは構想の射程で、坂本藤良氏は、藩を廃して郡県制を採る案を「龍馬の船中八策と双璧」と評しました。
ただし、小栗の主戦論が通っていたらどうなったか、という問いに答えはありません。箱根の作戦は、具体的ではあっても実行されなかった計画です。
よくある質問
小栗上野介はなぜ殺されたのですか?
慶応四年四月二十二日、東山道総督府が「権田村に陣屋を構え砲台を築いている」「逆謀判然」として、高崎・安中・吉井の三藩に追捕を命じたためです。ただし三藩は閏四月一日に現地を検分し、陣屋も砲台もないことを確かめて事実無根と結論しています。それでも閏四月六日、一度の取り調べもないまま斬首されました。実際に進んでいたのは住居の普請と用水の掘削です。江戸から携えた大砲と、罷免直前に主戦を説いた経緯が、討幕側には軍事拠点の造成と映ったと見られます。
小栗上野介は何をした人ですか?
幕末の幕臣で、目付・外国奉行・歩兵奉行・軍艦奉行を歴任し、勘定奉行には四度任じられました。主な仕事は三つです。万延元年の遣米使節で通貨交換比率の交渉にあたり、一行は日本人として初めて世界を一周しました。慶応元年に横須賀製鉄所(のちの横須賀造船所)を起工し、慶応三年に日本最初の株式会社「兵庫商社」を設立しています。ほかに洋式三兵制度による陸軍の創設、日本初の兌換紙幣、築地ホテル館があります。
名前の読み方は「ただまさ」ですか?
官職名の「上野介」は「こうずけのすけ」、諱の「忠順」は「ただまさ」と読みます。『小栗日記』(群馬県史料集第七巻)も坂本藤良『小栗上野介の生涯』も「ただまさ」とふりがなを付けており、顕彰会や主な伝記もこの読みです。「順」の字から別の読みを当てた表記を見かけますが、史料の振り仮名は「ただまさ」です。なお「上野介」は文久二年に改めた受領名で、それ以前の三年間は「豊後守」でした。
「逆賊」とはどういう意味ですか?
処刑に際して読み上げられた宣告文が「叛状明白ニ付、天誅ニ行フ者也」であったことに由来します。朝廷に対する謀反人という扱いです。ただし小栗は逆賊だったから殺されたのではなく、殺されたあとにその名が貼られました。追捕の回文に「逆謀判然」と書かれた時点で、謀反は確かめるまでもない前提として扱われ、取り調べのないまま処断されたからです。
赤城山の埋蔵金は本当にあるのですか?
史的な根拠はありません。昭和十六年刊の阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』が、すでに「これは全く何らの史的根拠もなきこと」と断じています。小栗は幕府最後の勘定奉行で、斬首に遭い、その前後の消息が知られていなかったため、物語の主役として都合がよかった、というのが同書の見立てです。小栗自身はフランスから利息付きの借款を取り付けようと奔走していました。埋めるほどの金があるなら、借りる必要はありません。
子孫はいるのですか?
公式の系譜では、慶応四年六月十四日に会津城下で生まれた一人娘の国子(クニ子)が、小栗家に残った唯一の血筋です。養嗣子の又一忠道は斬られて子を残していません。明治二十年十二月十日、国子は大隈重信夫妻の媒酌で矢野貞雄を婿に迎え、小栗家はこの一人娘を通じて続きました。貞雄が建てた雑司ヶ谷霊園の「小栗家累代之墓」には、忠順夫妻と娘夫婦の名が刻まれています。なお群馬には、公式の系譜に現れない側室と子についての伝えもあります。通説ではなく、断定もできませんが、別ページに整理してあります。
勝海舟と小栗上野介、どちらが正しかったのですか?
決められる問いではありません。慶応四年正月の江戸城で、小栗は箱根で東征軍を迎え撃つ具体的な作戦を示して主戦を説き、勝は恭順を主張しました。採られたのは恭順で、小栗の作戦は実行されていないため、結果を比べることができないのです。ただし、両者が互いの仕事をすべて否定したわけではありません。勝は『海軍歴史』で横須賀製鉄所の建設について「亦深く嘉尚すべし」と書いています。
お墓はどこにありますか?
最期の地である群馬県高崎市倉渕町権田の東善寺には、旧領の人々が館林から取り戻した首級が葬られ、墓と胸像があります。江戸の菩提寺は牛込通寺町の保善寺(現在は中野区に移転)で、忠順より前の歴代当主はこちらに葬られました。始祖・忠政以来の菩提所は埼玉県大宮の普門院。東京には、娘の婿・小栗貞雄が大正元年九月に建てた都立雑司ヶ谷霊園の「小栗家累代之墓」があります。
横須賀のドックは、いまも使われているのですか?
はい。慶応三年三月に開鑿が始まったドライドックは、いまも現役で使われています。百六十年近く前の設備が、今日まで動き続けてきました。工場は明治元年四月に新政府へ引き渡され、翌五月にわが国初の修船台が竣工、明治四年に横須賀造船所と改称し、明治八年三月五日には軍艦「清輝」が進水しました。「土蔵付き売据」が空言でなかったことを示す事実です。
2027年の大河ドラマの主人公になったのは、なぜですか?
選定の理由はNHKの判断であり、本サイトが説明できる事柄ではありません。確かなのは、2027年のNHK大河ドラマが小栗上野介忠順を主人公とする『逆賊の幕臣』(松坂桃李主演)として予定されていることです。この生涯には、世界一周、横須賀造船所、日本最初の株式会社、勝海舟との対立、取り調べのない斬首、名誉回復という筋が揃っています。
どの本から読めばよいですか?
いちばん新しく、文庫で手に入りやすい評伝から始めるのが確実です。本サイトの「本と資料」に、評伝・研究、小説、図書館や古書で探す本、インターネットで無料で読めるものを分けて挙げてあります。本サイトの記述が多くを負っているのは、坂本藤良『小栗上野介の生涯』、阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』、大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』、『小栗日記』です。
→ 公式の系譜に現れない側室と子の伝え(通説ではありません)
典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年/大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年/『小栗日記』群馬県史料集第七巻/『倉渕村誌』/小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』・顕彰会会誌『たつなみ』。栗本鋤雲の言は『匏菴遺稿』、福地源一郎の言は『幕末政治家』、勝海舟の言は『海舟日誌』『海軍歴史』による。