勝海舟(麟太郎、のち安芳)は、文政六年(1823)、本所亀沢町に生まれました。小栗忠順より四歳年長です。勝家の禄高は四十一石余で、二千五百石の旗本である小栗家とは家格の上で比べるべくもありません。阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』は、この差を「家系を重要視した時代における小栗と勝との立場を明かにする一要因」としています。
二人の出発点は、剣にありました。忠順が少年時代に門を叩いたのは、直心影流の男谷精一郎の道場です。勝麟太郎もまた、いとこにあたる男谷の道場に入門しています。勝が男谷道場を離れ島田虎之助の道場に移ったのは天保九年(1838)、一五歳のときでした。坂本藤良『小栗上野介の生涯』は、この時期の重なりから、のちに最も鋭く対立する二人が「その少年時代の、いつの時点かで、同じ道場で剣を競った可能性がかなり濃厚」だとし、これを「奇縁」と呼んでいます。
男谷は、のちに忠順の立ち合いを見て「思いきや、斯人の剣にして此の妙境に達せんとは」と激賞したと伝わります。その男谷は、勝に対しては「剣術よりも、蘭学や航海術を学べ」とすすめました。当時日本一と言われた剣客が、弟子の一人を剣の道から送り出しました。
咸臨丸をめぐる位置
万延元年(1860)の遣米使節で、二人は同じ航海に加わりました。ただし乗る船は違います。忠順は目付として米艦ポーハタン号に乗り、勝は護衛として随行した咸臨丸の船将でした。咸臨丸の総責任者は軍艦奉行の木村喜毅(摂津守芥舟)であり、勝はその部下にあたります。長崎海軍伝習所でも、勝は木村の下にいました。
ところが後世、咸臨丸の太平洋横断はもっぱら勝一人の功績として語られるようになります。坂本藤良氏は「明治維新から太平洋戦争にいたるあいだ、愛国心の昂揚と結びつき、『日本人=勝海舟』の壮挙として喧伝されてきた」とし、こと咸臨丸に関しては「多くの“虚像”が存する」と書いています。温和な木村は後年ほとんど何も語らず、同船した福澤諭吉は『福翁自伝』に「勝麟太郎という人はしごく船に弱い人で、航海中は病人同様自分の部屋の外に出ることはできなかった」と書き残しています。
浮けば沈む――対立の構図
帰国後の忠順は、開国論を一貫して主張しました。『幕末政治家』は、鎖国攘夷論が盛んで開国論を口に出せない状況のなか「小栗ひとりだけは、だれに遠慮することもなく、アメリカの文明のすぐれた点を説明し……老中などを驚かせた」と記しています。勝自身も日記に、江戸で開国説を主張する者として大久保一翁・小栗・岡部駿河の三人の名を挙げました。
幕府内部の力関係は、松平慶永(春嶽)を後ろ盾とし大久保忠寛が推挙した勝の系統と、開明派官僚として開国を説く忠順の系統に分かれていきます。坂本藤良氏は、この対立を突きつめれば「結局、勝海舟と小栗上野介の対立」だとしたうえで、二人の経歴が不思議なほど正確に入れ替わることを指摘しました。
文久三年(1863)四月二十三日――忠順が慶喜への加増に反対して辞任した日。同じ日、勝は将軍・家茂から神戸海軍操練所の設立を許されている。石井孝氏はこの日を勝にとって「生涯における最良の日」と評した。
元治元年(1864)五月十四日――忠順が無役でいるあいだに、勝は軍艦奉行に昇進し、安房守に任じられる。
元治元年十一月十日――長州と気脈を通じているとして、勝が軍艦奉行を免職。同じ日、忠順がかねて上申していた横須賀製鉄所の建設が正式に許可された。
勝が浮かべば忠順が沈み、忠順が浮かべば勝が沈む。禁門の変(元治元年七月十九日)での長州敗退が、勝を沈め、忠順を浮上させたのでした。
慶応二年、打ち明けられた機密
第二次長州征伐のさなか、幕府は薩摩の参軍を促すため、免職中だった勝を再び軍艦奉行に任じ、大坂へ出張させます。奉書が勝のもとに届いたのは慶応二年(1866)五月二十七日。すでに同年正月、薩長同盟は結ばれていましたが、幕府はそれを知りませんでした。
その大坂出発の前日、忠順は勝に幕府の機密を打ち明けます。勝はのちに『氷川清話』でこう回想しました。
小栗がひそかにおれに言うには、君が今度西上するのは、必ず長州談判に関する用向きだろう。もし然らば、実は我々にかようの計画があるが、君も定めて同感だろう。ゆえに、敢てこの機密を話すのだと言った
その計画とは、幕府のもとに郡県制度を立て、フランス公使ロッシュの紹介で銀六百万両と軍艦数艘を借り受けるというものでした。知る者は慶喜以下四、五人にすぎません。その場で勝は一言も反論せず、「議論も無益と思い、ただ唯々たる而已」(『解難録』)だったといいます。
ところが大坂に着くと、勝は城内の老中たちに激しい小栗批判を展開しました。『海舟日誌』には「国(の)財宝空費し尽るを以て、地を質して、払郎西より……金幣を借る」とあり、小栗の計画は「日本の国土を担保にする」ものとして語られています。郡県制度案そのものは悪くないが、やるなら幕府が「先、自ら倒れ、自ら削小して」かかるべきだ、というのが勝の主張でした。
もっとも、横須賀製鉄所についてだけは、勝ものちに『海軍歴史』で功績を認めています。「小栗上野介、勘定奉行より軍艦所の事を兼勤し、大に時勢を察し、海軍の拡張すべきを悟り、首として船廠設立の事を主張し……亦深く嘉尚すべし」。
「痩我慢の説」と勝の返書
福澤諭吉が「痩我慢の説」の草稿を書いたのは明治十年(1877)のことです。幕臣でありながら新政府に仕えた勝と榎本武揚の身の処し方を、士道の点から論難したものでした。福澤はこの草稿をそのまま勝本人に送り、「書中或ひは事実之間違有之間敷哉」と意見を求めています。翌二月六日、勝はこう答えました。
行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我れに与らず我れに関せずと存じ候
福澤は、勝の生前にこれを公にしませんでした。二十四年ののち、勝が明治三十二年(1899)に七十七歳で没したあと、明治三十四年(1901)になって世に発表されます。忠順が慶応四年(1868)に四十二歳で斬られてから、三十三年後のことでした。
後世に語り継がれる対比
坂本藤良氏は、忠順が「ただ幕府しか眼中になかった」という固定したイメージが広まった一因として、「政敵、勝海舟が、明治もよほどあとになってから語ったり書いたりした小栗忠順観」を挙げています。評価が長く一方に傾いてきた背景には、語り手の数と、語り続けられた年月の差がありました。
このサイトでは、どちらか一方の顕彰のために他方を貶めるような書き方は避け、それぞれが置かれた立場の中で何を選び、何を成し遂げたかを、できるだけ淡々と紹介する方針をとっています。剣の道を同じくしながら、政治の道では相容れなかった二人の関係は、幕末という時代そのものの複雑さを映す鏡でもあります。
典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年