PEOPLE

木村摂津守 ― 私財を投じた提督

咸臨丸の総督として太平洋を渡った幕臣。私財を投じて航海を支えたと伝わります。

木村喜毅(摂津守、号は芥舟)は、万延元年の遣米使節にあたって、護衛艦・咸臨丸の司令官として太平洋横断を指揮した人物です。阿部正弘に抜擢された人材のひとりで、安政三年(一八五六年)に本丸目付となったのち、長崎表取締御用、長崎海軍伝習生監督、神奈川開港御用掛を歴任しました。遣米使節の話が動き出したときには軍艦奉行並の地位にあり、安政六年十一月二十八日に軍艦奉行へ昇進、従五位・摂津守に任ぜられています。

安政六年十二月一日、新見正興・村垣範正・小栗忠順の三使節が将軍に拝謁したその場に、木村も同時に拝謁しています。彼に与えられた任務は、使節団が無事にワシントンに到着したかどうかを見とどけること、そして三使節に万一のことが起こった場合に代わりをつとめることでした(坂本藤良『小栗上野介の生涯』)。

軍艦奉行・木村喜毅(摂津守)の肖像写真
軍艦奉行・木村喜毅(攝津守)。出典:文倉平次郎編『幕末軍艦咸臨丸』1938年、国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/1921104)

「別船を出す」という提案

咸臨丸の派遣は、しばしば勝海舟の発案として語られてきました。しかし坂本藤良氏は、別船の派遣を強く要望したのは水野忠徳・永井尚志・岩瀬忠震らであったとしています。日本人が操縦する別船を仕立てることが諸外国への体面と海軍育成のために望ましいという上申は、安政五年(一八五八年)八月、日米修好通商条約調印の翌々月にはすでに提出されていました。海軍伝習所の伝習生にも護衛艦派遣の希望があり、海軍教授方頭取だった勝がその先頭に立っていたことも事実です。

議論を経て水野・永井・岩瀬の提案が採用され、その最高責任者として木村が任命されたのは、安政六年十一月二十四日のことでした。木村は乗組員の人選を任され、勝麟太郎を筆頭に選び、通訳にはジョン万次郎を、そして自身の従者として福澤諭吉を指名しています。日本人総勢九六人、ほかにアメリカ海軍将兵一一人という編成でした。

咸臨丸そのものについては、木村の日記『奉使米利堅紀行』に「今度仕出さんとする舶は、百馬力の捻仕掛蒸気船にして、咸臨丸と名づく」とあります。「捻仕掛」はスクリュー推進のこと。オランダのキンデルダイクにあるフォップ・スミット造船所へ幕府が注文した船で、原名を「ヤッパン号」といいました。トン数は二五〇・三〇〇・四七〇と諸説あり、使節団が乗ったポーハタン号の二四一五トンに比べればはるかに小さい。ただしポーハタン号が旧式の外輪船であったのに対し、咸臨丸は当時の最新鋭艦でした。

千両箱を積んで出航した

木村が私財を投じたという逸話には、具体的な中身があります。阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』は、咸臨丸の乗組員が勝にせよ福澤にせよ貧乏武士ばかりであったなかで、ひとり木村は名家であり、「異国に使して国威を損じては国辱なり」として、代々伝わった木村家の財産を千両箱に入れてこの船に積み込んだ、と記しています。

暴風に悩まされたときには、水夫たちにこの黄金をやると言って勇気を起こさせ、ブルック大尉と別れに臨んでは、その功を謝して「餞別として貴下の欲するだけこの黄金を持参すべし」と申し出たといいます。

この話には小栗上野介が登場します。木村が幕府から借りた金五百両は、帰朝後、勘定奉行となっていた小栗上野介に返金されているのです(同書)。太平洋を渡った二人が、帰国後は貸し手と借り手として帳簿の上で向き合っていました。

ブルック大尉を乗せた決断

咸臨丸の航海を実際に支えたのは、アメリカ海軍のジョン・M・ブルック大尉でした。ブルックの『咸臨丸航海日記』によれば、日本人は出港の翌日には全員が船酔いで参ってしまい、勝も自室に閉じこもったきりだったといいます。悪天候は三日間つづき、甲板で働けたのはアメリカ人の士官・水兵と、日本人では中浜万次郎・小野友五郎・浜口興右衛門の三人だけ。全航海三八日間のうち天気がよかったのは四、五日にすぎず、三分の二以上はブルックが指揮をとっています。

このブルックらを乗船させたのは、木村の決断でした。勝は、アメリカ人に手伝ってもらったと思われることを嫌って激しく反対しましたが、木村はそれを抑えて乗船させています。帰国後、勝は幕府への報告書でも『氷川清話』でも外国人の力を借りずに成し遂げたように述べましたが、木村は『紀行』に率直な感謝を記しました。

人物極めて温良にして航海の術に達せり。此人の此行に従ふは、余に於て尤大幸とするところなり

帰路のためにもアメリカ水夫八人を雇いたいと申し入れ、実際に五人が同乗しています。

旗印と祝砲

サンフランシスコ入港のさいには、二つの事件が起こりました。ひとつは旗印です。乗組士官らが軍艦奉行である木村の紋所を掲げて入港すると決めたところ、勝が承知しない。自分の旗印でないことが不満だったのです。士官がブルックらに慣行をたずねると「当然、最高司令官の旗をかかげるべきだ」と言われ、それを聞いた士官連中は勝の旗印をどこかへ隠してしまった、と伝わります。

もうひとつは祝砲です。勝は「到底無理だから、やめろ」と言い、士官の佐々倉桐太郎が「いや必ず撃てます」と応じると、「ばかを言え。できたらおれの首をやる」と口走りました。祝砲は見事に撃てています。木村は『紀行』のなかで、日本の役人は何事も上司に伺いを立てるのがしきたりだが外国ではそうもいかない、として、

たとへば祝砲の如きは、(幕閣の意見などを)毫も顧慮する処なく、彼国の礼節に応じなし得し事、大に都合よかりしなり

と書き残しました。暗に勝を皮肉ったものと読めます。木村は幼時から秀才として知られ、二五歳で長崎目付をつとめ、他人の意見をよく聞く人柄であったといいます。福澤諭吉が木村を尊敬し、木村を軽視する勝に不快の念を抱いていたことは、のちの『瘠我慢の説』につながります。

サンフランシスコの一夜

陽暦一八六〇年三月二十日、ポーハタン号がサンフランシスコに着き、忠順らは先に着いていた咸臨丸の一行と再会します。三月三十日、三使節と森田清行はさっそく木村の宿舎を訪ねました。木村は彼らに風呂をすすめ、とっておきの洋酒を出します。一同は深夜まで飲み、語り、忠順と森田の二人は酔ってそのまま木村のところに泊まってしまいました。

咸臨丸の一行は、使節団がワシントンに無事到着する見通しがポニー・エクスプレス便で届くと、帰国の方針を決めます。ワシントンまで行こうという者、喜望峰まわりで世界一周して帰ろうという者もいましたが、木村は太平洋をまっすぐ横断して帰ることを選びました。『紀行』には「都府(ワシントン)を一見せざるハ、極て遺憾のこと」としながら、「使節も安着したれば……何事もなき内に帰帆せんとハ思へるなり」とあります。咸臨丸は陽暦五月八日正午にサンフランシスコを出港し、ハワイに寄って六月二十三日(邦暦五月五日)に帰着しました。

坂本藤良氏は、使節団と咸臨丸に対するアメリカ人同乗者の評価が対照的であった理由を、集団内部の信頼関係に求めています。最高指導者である新見と木村はどちらも象徴的な存在で、温厚さゆえに尊敬され甲乙なかった。差がついたのは実力指導者としての小栗と勝のリーダーシップだった、という見立てです。温和な木村は後年ほとんど何も語らず、勝の宣伝に任せました。その名が埋もれたのは、そのためでもあります。

典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年

→ 咸臨丸の「神話」を検証する → 福澤諭吉 → サンフランシスコ上陸