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サンフランシスコ上陸

三月九日、サンフランシスコに上陸。大歓迎のなかで、一行は絨毯やシャンパンに目を丸くしました。

ハワイを経て太平洋を渡った使節団は、万延元年(一八六〇年)三月九日、アメリカ本土のサンフランシスコに到着しました。日本の公式使節がアメリカの陸地を踏んだ、最初の瞬間です。

ここに至るまでの航程は、随行者の筆録に残っています。忠順に随従した家臣で権田の名主だった佐藤藤七の「世界一周略記」は、一行を「総人数七十六人 上下共」、迎船ポーハタン号を「総人数五百三十八人」「長四十六間・横十四間」と書き出しています。正月二十四日に東太平洋へ出たあとは逆波と大風で七日のあいだ難渋し、二月三日にようやく凪いで「上下安堵いたす也」。荒天で石炭を焚きすぎたためサンフランシスコまで直行できず、二月七日から進路を南東へ振り、八日目の十四日にホノルルへ入港しています。七日滞留して二十七日に出帆、そこからサンフランシスコまでを「我国ノ里数九千二百里」と記しました。

新見豊前守の家臣で行年二十五歳の柳川兼三郎も「航海日記」を残しています。万延元年正月十八日、九段坂から鎌倉河岸・日本橋通を経て築地の操練所に着き、昼食をすませてポーハタン号へ乗り移り横浜港へ。翌十九日には外国奉行の酒井隠岐守・赤松左衛門尉・竹本図書頭、目付の神保伯耆守が送別に来船し、二十二日に横浜を出帆した——という記録です。

サンフランシスコで撮影された使節五氏の肖像
桑港(サンフランシスコ)五氏像。出典:国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/1920856)

メア・アイランドでの再会

入港した一行は、すぐに市中へ入ったわけではありません。ポーハタン号はそのままサクラメント河を遡り、メア・アイランド(メイスアイラン)の海軍工廠に着いて船の修復にかかり、あわせて石炭と食糧を積み込みました。

そしてこの地で、使節は日本を出発して以来はじめて、咸臨丸で先に渡っていた木村摂津守と対面します。咸臨丸は正月十九日に品川沖を発ち、二月二十六日に桑港へ着いていました。ポーハタン号はハワイで国王に謁見するなどして手間取り、少し遅れての到着です(阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』)。

坂本藤良氏によれば、三使節と森田清行は木村の宿舎を訪ね、木村は彼らに風呂をすすめ、とっておきの洋酒を出しました。一同は深夜まで飲み語り、忠順と森田はそのまま泊まり込んでいます。

造幣局の視察

忠順がサンフランシスコで最初に手をつけたのは、造幣局の視察でした。到着の翌日には日本あてに何通もの手紙を出して日本金貨の流出防止を説き、その四日後、歓迎行事の合間を縫ってアメリカ合衆国造幣局サンフランシスコ分廠を訪れています。ワシントンでの日米通貨・為替交渉が始まるのは、これより二か月近くあとのことです。

同行者の記録も残っています。名村五八郎の日記には「三月十四日 ……金座ならびに運上所に到る」とあり、益頭駿次郎は、銀貨や銅貨に刻印する機械が「一ミニュート」(一分)に七二個も仕上げる速さに感心したと書きました。もっとも詳しいのは森田清行の『亜行日記』で、所在・貨幣の種類・製造工程を記したうえで、こう結んでいます。

右宝貨局(貨幣製造工場)凡て人力を費さず、蒸気器械を用ひ、水は革製の(ポンプ)にて、二層三層四層の楼上へひき、火を用ゆるには凡てガスより取る。便利迅速いはん方なし

貨幣そのものよりも、人力を使わずに水と火を建物じゅうに回す仕組みのほうに目が向いています。

火事を見た記録

柳川兼三郎の「航海日記」が次に日付を記すのは三月十六日で、サンフランシスコ港で見た火事の様子に触れています。梯子や竜吐水は日本のものと似ているが、ほかに消火道具らしいものが見当たらない。見物人もほとんどいない。隣家が燃えていても騒がず、家財道具一つ持ち出そうとしない——。柳川は、日本の家屋は木と紙でできているから破壊消防でしか類焼を止められないが、ここの建物は瓦と石で造ってあるので鎮火が早く、一戸だけの災難ですむのだ、と書き留めました。火事場に野次馬が駆けつけて右往左往する江戸とは、あまりに違う光景でした。

滞在はごく短かった

ポーハタン号がメア・アイランドを出帆したのは三月十六日。河幅の広いところで三、四十町、狭いところでも二十町はあるサクラメント河を下り、同日サンフランシスコに着いて碇泊しました。翌十七日が市中見物。そして十八日には出帆し、カリフォルニア半島の沖合を南下して、中米のパナマ地峡を目指します。市中に滞在したのは、実質わずか一日でした。

咸臨丸の一行は、そのままサンフランシスコに残ります。使節たちが無事にワシントンへ着いたかどうかを見とどけてから帰国する、というのが木村の任務だったからです。

なお、ポニー・エクスプレスが歴史的な第一便をサンフランシスコから送り出したのは一八六〇年四月三日のことで、その郵便袋には「日本使節団サンフランシスコ到着」の知らせが入っていました。

典拠:大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年(佐藤藤七「世界一周略記」・柳川兼三郎「航海日記」を収録)/坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年

→ パナマ地峡を鉄道で越える → 咸臨丸の「神話」を検証する → 木村摂津守