万延元年の遣米使節というと、真っ先に咸臨丸と勝海舟の名が出てきます。日本人だけの手で太平洋を渡った、という物語はよく知られています。ただし、正使・新見豊前守正興、副使・村垣淡路守、目付・小栗豊後守という使節団本隊が乗り、批准書交換という本来の使命を担ったのは、アメリカ海軍のポーハタン号でした。咸臨丸は、護衛と乗組員の訓練を目的として同行した別船です。
誰が咸臨丸の派遣を言い出したか
咸臨丸の派遣を提案したのは勝だ、と一般には語られてきました。しかし坂本藤良氏によれば、使節団に随行させる別船の派遣は、水野忠徳・永井尚志・岩瀬忠震らの強い要望から始まっています。日本人の操縦する別船を仕立てることが諸外国への体面と海軍育成のために望ましい、という上申は、条約調印の翌々月にあたる安政五年(1858)八月にはすでに提出されていました。長崎海軍伝習所の伝習生のあいだにも護衛艦派遣の希望があり、海軍教授方頭取だった勝がその先頭に立っていたことは事実です。ただ、発案そのものは勝ではありません。
安政六年十一月二十四日、別船派遣の最高責任者に任命されたのは、軍艦奉行・木村喜毅(摂津守)でした。木村の公式の任務は、使節団が無事ワシントンに着いたかを見届けること、そして三使節に万一のことがあれば代わりを務めることです。非公式には、日本の軍艦を太平洋横断させるという対外的な効果と、航海中に無人島を見つけて日本領にできないかという極秘の目的もありました。
木村は乗組員を自ら指名します。筆頭が勝麟太郎、通訳のなかにジョン万次郎、そして木村の従者として福澤諭吉。日本人は総勢九十六人、ほかにアメリカ海軍将兵十一人が乗り組みました。船はオランダのフォップ・スミット造船所へ幕府が注文したもので、原名を「ヤッパン号」といいます。木村は『奉使米利堅紀行』に「百馬力の捻仕掛蒸気船にして、咸臨丸と名づく」と書きました。「捻仕掛」はスクリュー付きの意味で、外輪船だったポーハタン号(二四一五トン)より小さくとも、当時の最新鋭艦でした。
三十八日のうち、晴れたのは四、五日
問題は航海の実態です。アメリカ海軍のジョン・M・ブルック大尉とその部下を咸臨丸に乗せたのは、木村の決断でした。勝はこれに激しく反対しています。外国人に手伝ってもらったと思われるのを嫌ったのです。
その反対を押し切って同乗させた判断が、結果的に船を救いました。ブルックの『咸臨丸航海日記』によれば、日本人は出港の翌日には全員が船酔いで参ってしまいます。出港翌日の二月二十日夕方から嵐となり、二十一日にはさらにひどくなって、暴風雨は三日間続きました。この間、甲板で働けたのはアメリカ人の士官と水兵、そして日本人では中浜万次郎・小野友五郎・浜口興右衛門の三人だけだったといいます。
全航海三十八日間のうち、天気がよかったのは四、五日しかありませんでした。そして航海の三分の二以上は、ブルックが指揮をとっています。勝は自室に閉じこもったきりで、指揮をするどころではなかったと記録されています。
にもかかわらず勝は、帰国後の幕府への報告書でも、のちの『氷川清話』でも、外国人の力を借りずに日本人の手だけで成し遂げたように述べました。一方、福澤諭吉が『福翁自伝』に書いたのは、他人の手を借りずに出かけようと「決断した」その勇気と技倆は日本国の名誉だ、という言い方です。決断は事実、しかし現実は決断どおりにはいかなかった――というのが坂本氏の整理です。
木村の筆は率直でした。ブルックについて、こう書き残しています。
人物極めて温良にして航海の術に達せり。此人の此行に従ふは、余に於て尤大幸とするところなり
帰路についても、木村と勝はアメリカ人水夫八人を雇いたいとブルックに申し入れ、実際に五人が同乗しています。
旗印と祝砲――サンフランシスコでの二つの事件
サンフランシスコ入港の際には、二つの騒ぎが起きました。一つは旗印です。乗組士官らが軍艦奉行たる木村の紋所を掲げて入港すると決めたところ、自分の旗印でないことを不満として勝が承知しない。士官がブルックらに慣行を尋ねると「当然、最高司令官の旗をかかげるべきだ」との答え。これを聞いた士官連中は、勝の旗印をどこかへ隠してしまったといいます。
もう一つは祝砲です。『福翁自伝』によれば、勝は「到底無理だからやめろ、なまじ撃ってやりそこなったらみっともない」と言い、士官の佐々倉桐太郎が「いや必ず撃てます」と応じました。勝はカッとなって「ばかを言え。できたらおれの首をやる」。祝砲は見事に撃てました。木村も紀行文で、祝砲は自分の独断でやらせて成功したと書き、暗に勝を皮肉っています。木村は後年、勝の振る舞いを身分への不満によるものと見ていました。
サンフランシスコでの再会
ポーハタン号がサンフランシスコに着いたのは一八六〇年三月二十日(邦暦三月八日)。ここで小栗らは、先に着いていた咸臨丸の一行と再会します。三月三十日、三使節と森田岡太郎清行が木村の宿舎を訪ねました。木村は一行に風呂を勧め、とっておきの洋酒を出します。深夜まで飲み、語り、小栗と森田はそのまま酔って木村のところに泊まってしまいました。
咸臨丸はサンフランシスコで損傷箇所を修復したのち、使節団が無事ワシントンに着くという知らせを受けて陽暦五月八日正午に出港し、ハワイを経て六月二十三日(邦暦五月五日)に日本へ帰り着きました。
同乗したアメリカ人の目に映った差
二隻に対する同乗アメリカ人の評価は、対照的でした。ポーハタン号の日本人は、嵐にあっても顔色ひとつ変えず、ひと言も愚痴をこぼさなかった――ジョンストン大尉がそう新聞記者に語ると、それはアメリカ市民の心を打つ記事になりました。一方の咸臨丸については、日本人にもっとも好意的だったブルック大尉ですら、乗組の日本人士官や水夫のだらしなさに呆れはてた、と日記に書いています。坂本氏は、この差の一因を集団内部の信頼関係、とりわけ実力指導者としての小栗と勝のリーダーシップの差に見ています。
咸臨丸の物語の価値を否定する話ではありません。日本国籍の軍艦が、島づたいではなく太平洋をまっすぐ横断した事実そのものが、当時としては大きな挑戦でした。問題は、後年その物語がどう使われたかです。明治の薩長藩閥政府とその後の国家主義的な教育は、幕府の結んだ条約を不平等条約として悪罵し、その批准書を交換しに行った使節団を無意味なものとして扱いました。同じ理屈なら護衛の咸臨丸も同罪のはずですが、そちらだけは「日本人の力で太平洋を渡った快挙」として称えられます。咸臨丸には、明治政府に仕えて活躍した人物が乗っていたからです。
典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年(木村喜毅『奉使米利堅紀行』、ブルック『咸臨丸航海日記』、福澤諭吉『福翁自伝』による)
→ 木村摂津守喜毅