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米国人が見た「一番できる日本人」

「オグロ・ブンゴ・ノカミ」――アメリカの新聞はどう報じたのでしょうか。

万延元年の遣米使節について、アメリカ側から書かれた記録のなかで最も参考に値するとされてきたのが、米海軍中尉ジョンストン(Lieutenant Johnston)の日記です。新聞記事とは違い、この人物は航海のあいだじゅう一行のすぐそばにいました。

ジョンストン中尉とはどんな人か

ジョンストンは、使節一行が乗ったアメリカ海軍のフリゲート艦ポーハタン号の乗組士官でした。いわばアメリカ側の使節接伴武官として来日し、一行と親しくワシントンまで同行して、その動作に細かく気を配り、世話も焼いています。帰国して任を解かれたのち、この一行について著述を残しました。同時代の外国人の記録は他にもありますが、使節に対する批評がほとんど的を外していない点で、群を抜いて価値が高いと評されてきました。

この日記が日本で知られるようになった経緯も少し変わっています。蜷川新が「万延元年遣米使節図録」を入手し、その付録に「米人の見たる万延日本使節」と題してジョンストンの日記が載っていた。長らくこれを探し求めていた阿部道山氏に、蜷川がこれを貸与したのです。図録の巻頭には蜷川自身の筆で「大夫使外 不辱君命」と記されていました。「大夫」は上野介を指します。ただし、この図録に収められているのは日記の全文ではなく、抜粋です。

船の上の日本人

中尉の観察は、まず生活ぶりから始まります。

「彼等は寝室の六ヶ敷い註文等は決してせないで當てがはれた釣床に寝たり又氣が向けば甲板へでも寝たのである。室の中央には彼等にはなくてはならぬ一つの火鉢が据えてあつて其中には炭火が灰に圍れて起つてゐる。そして召使の男は草履をはいて……絶えずお茶の代りを運んでゐた。蓋し彼等は終日お茶を呑んでゐるのである」

寝場所に注文をつけず、与えられた釣床で寝る。気が向けば甲板でも寝る。中央には火鉢、そして一日じゅうお茶。初めて太平洋を渡る一行が、どれほど早く船上の暮らしに順応し、どれほど巧妙に空間を節約したか――「唯驚くの外はなかつた」と中尉は書いています。

次に彼が驚いたのは、記憶力でした。

「彼等は乘組士官の姓名と官位とを乗船後二十四時間ですつかり覺えたのである。……彼等は常に控帳と矢立とを用意してゐて誰の所へでも遠慮なくやつてきては一寸肘でつゝいて其注意を喚起し『お名』とくり返すのである。而して我等の答を聞くや否や彼等特有の文字で手帳に寫し取り正確に之を發音するに至る迄は何遍も之をくり返す」

三人の全権をどう見たか

ジョンストンの人物評は、率直で容赦がありません。正使・新見豊前守については「年齢三十七許り。稍々寡默の傾のあるも温和慈愛の相を有し極めて親しみ易い人であつた。彼は明に才氣煥發の人ではなかつた」。名門の出で、風采や動作は上品だった、と続けます。堂々たる押し出しゆえに正使に選ばれたと伝えられてきたことを、外国人の観察が裏づけている形です。

副使・村垣淡路守については、さらに手厳しい。ホノルルまでの航海中は船酔いに苦しみ、ほとんど船室に引きこもって甲板へ出なかったので、誰も彼と交際した者がなかった。函館奉行を務めた経歴から正使よりは優れた頭脳を持つと見えるが、「一行に重みをつける為に添役として加はつただけで何等の相談にあづかることもなければ又進んで自から意見を述ぶこともなかつたやうである」――。もっとも、後世この使節の全貌が明らかになったのは村垣が書き残した航海日記のおかげであり、中尉はその文才だけは見落としています。

そして三人目。

「小栗上野介(豊後守)は確かに一行中で最も敏腕な最も實際的の人物であつた。使節等が訪問せし諸處の官憲との正式交渉は皆彼によつてのみ處理されたのである。彼は四十位の年配で小男であつたが、骨相學の上より判断すれば優れた智的頭腦の持主であつた。少し許り痘痕のある彼の顔は智力と聰明とで輝いて居た」

このとき小栗は三十四歳。少し老けて見えたようです。痘痕があったことは事実で、中尉はさらに、小栗が以前将軍に近い重い地位を占めていたこと、今回の使命は前例のない旅を試みる一行の消息を明確かつ忠実に将軍へ報告することであり、「守」の称号は使節に任命された時に授けられたものだ、というところまで正確に押さえています。八十名を超える一行の中心が誰であったかを、接伴役はきちんと見抜いていました。

海軍工廠での一日

小栗にとって最も重要だったであろう海軍工廠の視察も、村垣の日記ではごく簡単な記述で済まされています。ジョンストンの筆は違いました。ブカナン大佐の歓迎の辞に正使が答え、一巡して各部の作業を視察する。機械部では、ペンサコラに据え付けるため製造中の大規模な機関を見て感嘆の辞を発し、大砲部では雷管の製造と填充作業、ミニエー小銃用の弾丸製造、真鍮の榴弾砲の鋳造と仕上げを見て、アメリカ人の技術と仕事の規模を改めて賞讃した――。

そのあと、使節一行を正面に据え、工廠の士官が随員や新聞記者とともに後方に並んで写真を撮っています。仕上げに精巧なダールグレン砲と榴弾砲を撃ってみせると、一行は驚嘆の目を見張り、弾丸が河の水面を掠めて飛ぶのを満足げに見守っていた、とあります。

世界地理、天文、海軍制度、陸軍制度、農業、博物――長い航海のあいだに小栗がその片鱗を知ることができたのは、ジョンストン中尉を通じてであった、と日記そのものが記しています。条約批准書の交換という使命よりも、この航海で得た知識のほうが日本にとって重かった、というのが、のちの評伝の見立てでした。

典拠:阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年(同書には海軍を賛美する強い時代色があり、引用の扱いには注意が必要です)

→ 米国人が見た「一番できる日本人」 / 従者トミーの人気と誤報事件