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従者トミーの人気と誤報事件

人気者だった従者トミーの発言が誤って伝わり、日本には「切腹した」という誤報が広まったと伝わります。

使節団のなかでアメリカ人にもっとも人気があったのは、正使でも副使でもなく、小栗忠順の従者立石斧次郎――愛称トミーでした。当時まだ数え十七歳。オランダ語通訳・立石得十郎の子で、海外の事情と英語を学びたいと願い出て、通訳見習として一行に加えられた少年です。

なぜ「トミー」なのか

愛称の由来ははっきりしています。養父の得十郎が、斧次郎を幼名の為八から「タメ!」と呼んでいた。それを聞いたアメリカ海軍の士官たちが「トミー」と呼ぶようになったのです。愛敬のある性格で、英会話にもとくに熱心でした。習いおぼえた言葉をすぐ片言で使ってアメリカ人に話しかけるので、すでにポーハタン号の船中で士官や水夫と仲良くなっています。

小栗の従者には若い者が多くいました。トミーのほかに十七歳の三村慶三郎、十九歳の福島義言、同じく十九歳の三好権三。木村鉄太の三十一歳が年長のほうです。意識してそう組んだのかもしれません。

ヤンキー・ガールに追いかけられる

アメリカに上陸してからの人気は、日に日に上がっていきました。ワシントンでは、上流婦人たちの集まりにトミーが近づくと「あたりはシンと静まりかえった」といいます。ニューヨークのブロードウェーでは、使節団を歓迎する人出が市の史上最高を記録しましたが、パレードの馬車の上からトミーがアメリカ人女性にもらったハンカチを振ってみせると、群衆は大歓声をあげました。

本人も悪びれません。何人かの令嬢と恋に落ちたと言われ、『ニューヨーク・タイムズ』紙の記者に向かって「髪をのばしてアメリカ海軍士官学校に入り、アメリカ娘を女房にしたい」と語り、意中の“候補者”の写真を見せたりもしています。航海の帰り道でも、ワシントンで会った少女の写真をいつも眺め、同行のアメリカ人記者にあまり何度も見せるので、終わるころにはあきれられていたと伝わります。

「ハロカルを命じた」という誤報

あまりに調子に乗りすぎるので、主人である小栗がたしなめました。ところが、そのことが大きく新聞に出てしまいます。

「オグロがトミーにハロカル(腹切り)を命じた」

もちろん誤報です。「腹切り」など命じられてはいません。日本の主従関係と切腹という慣習が、アメリカの記者の頭のなかでつながってしまった結果でした。アメリカの新聞はさらに市民の気持ちを代弁して、小栗に「どうかトミーを叱らないで!」と書き立てています。外交使節の監察役が、従者を叱ったというだけで新聞に諭される。日米の交際が始まったばかりの時期らしい珍事でした。

この熱狂の結晶が、楽譜「トミー・ポルカ」です。表紙には羽織袴で小刀を腰にさし、大刀を手に持って椅子に腰かける若いサムライが描かれ、印刷は1860年。献辞には「日本使節団員、立石斧次郎こと、トミーに捧ぐ」とあります。歌詞はこうでした。

街ゆく、奥さん、お嬢さん/夢中で周りに寄ってくる/魅力あふれた 小さな紳士/その名は トミー/日本から来た 黄色いトミー/ウィッティな トミー

この曲は全米で大ヒットし、アメリカの社交界はこれを演奏し、歌い、踊りました。骨肉あい食む南北戦争前夜の暗さのなかでの、最後の楽しいひとときでもあった、と評されています。楽譜そのものは百数十年のあいだ幻とされ、歌詞だけが知られていた時期が長く続きました。

帰国後の細い糸

トミーの帰国後を記した史料は、見あたりません。ただ、一本の細い糸がたどれます。のちに三井物産の初代社長となる益田孝が、青年時代に立石斧次郎から英語を習っているのです。益田はその英語にもとづく交渉力によって三野村利左衛門に認められました。その三野村は、小栗のおかげで三井の大番頭となった人物であり、小栗が創設した日本最初の株式会社「兵庫商社」に学んで三井物産を創立し、初代社長に益田を迎えます。

渡米のとき主人に叱られた十七歳の従者が、帰国後に英語を教えた青年が、主人の遺した構想を継いだ商社の社長になる――当人たちは、そんなつながりを知りはしませんでした。

典拠:坂本藤良『「兵庫商社」を創った最後の幕臣 小栗上野介の生涯』講談社、1987年

→ 立石斧次郎「トミー」― 全米を沸かせた従者の生涯 / ニューヨーク大歓迎と「トミー・ポルカ」