万延元年(一八六〇年)の遣米使節団は七七人の大所帯でした。アメリカの新聞は連日その動静を書きたて、上陸したばかりのころは「星からの珍客」(『ニューヨーク・ヘラルド』紙)と呼んでいます。ところが一カ月半の滞在のあいだに、その視線は珍奇な見世物への好奇心から、対等な相手への敬意へと変わっていきました。そして記者たちがとりわけ注目したのが、目付の小栗――米紙が「オグロ・ブンゴ・ノカミ」と書いた人物でした。
「日本使節のブラック判事」
使節団の一人ひとりについて人物評が載るようになると、小栗はそのなかでも別格の扱いを受けます。
監察オグロ・ブンゴ・ノカミは、小柄だが、生き生きした、表情豊かな紳士である。威厳と、知性と、信念と、そして情愛の深さとが、不思議にまざりあっているのである
彼は、明らかにシャープな男である。ワシントンで「日本使節のブラック判事」とニック・ネームがついたのも、もっともなことであった
当時のアメリカの新聞(坂本藤良『小栗上野介の生涯』所引)
ここでいうブラック判事とは、ジェレミア・サリヴァン・ブラック(一八一〇~一八八三年)のことです。法務長官・国務長官を歴任し、なによりも名裁判官として当時のアメリカでもっとも人気と尊敬を集めていた人物でした。日本でいえば大岡越前守か遠山金四郎にあたる名前を、三十四歳の一幕臣があだ名として与えられたわけです。
立ち居振る舞いの観察
記者たちは、小栗の身のこなしそのものを書き留めています。
レセプションでも、オグロはいつも顔をあげてまっすぐ立っている。眼ざしはほんのわずか下方を向いて、周囲のあらゆる動きに、静かに、不断の注意をはらっている
オグロは、使節団の中心である。なにごとも、彼の同意がなければ決定できない。彼のからだのすみずみに、秋霜のきびしさがみなぎっている
同じ紙面で、正使・新見正興は「ゆったりした威厳がある」、勘定組頭の森田清行は「使節団中随一の美男子」、目付の塚原は「知的で元気あふれる青年」と評されました。人物評そのものは団員の多くに及んでいますが、「なにごとも彼の同意がなければ決定できない」と書かれたのは小栗だけです。肩書は正使でも副使でもない目付――それが外から見た使節団の実質的な中心でした。
ちなみに小栗の肩書「目付」は、当初アメリカ側で「スパイ」と訳され、「使節のなかに公然とスパイがいる」と騒ぎになったことがあります。のちに誤解は解け、訳語はほぼ censor(監察官)に統一されました。
何にアメリカ人は感動したのか
評判の決定打となったのは、フィラデルフィア造幣局での日米合同実験でした。小栗が持参した象牙づくりの天秤ばかり、そろばんの速さ、十進法の度量衡――どれも紙面をにぎわせましたが、坂本藤良氏は、実験が終わってみるとアメリカ人が真に驚いたのは、そのどれでもなかったと書きます。彼らがもっとも感動したのは、日本人の知性と、堂々とした態度でした。小栗は自分の主張すべきことをはっきり主張し、驕ることも臆することもなかった。ごまかしがなく、そのうえ粘り強い。その交渉ぶりに、かえって深い信頼が生まれたのです。
『ニューヨーク・タイムズ』紙は、七七人の使節団に僧侶が一人もいないことに驚きつつ、こう書きました。
日本人はきわめて合理的な性格を持つ人種なのである 。…… かと言って、想像力に欠けているわけではない 。…… 日本人は、善良で、温和で、そして世界でも最高の知性を有している
合同実験を終えた新聞は、この知的で行動的な日本人という民族は、将来きっとアメリカ人に対する「教師」の立場になることであろう、と善意をこめて書き記しています。
節度を支えたもの
アメリカ東部の諸都市をめぐった約一カ月半、使節団は市民とかなり自由に交歓しながらも、一定の節度ある行動を保ちました。坂本藤良氏は、これを「監察」である小栗の適切なリーダーシップのたまものと見ています。小さなことのようですが、アメリカの新聞が使節たちの名前を日本どおりの〈姓-名〉の順で書いているのも、彼らが西洋式に迎合して名前をひっくり返さなかったからでした。
もっとも、すべてが美談だったわけではありません。バルチモアのホテルでは、小栗の直属の部下・日高為善の日本刀二本が盗難にあっています。寝室に刀を置いてバルコニーで歓迎の打上げ花火を見ていた、そのわずかのあいだの出来事でした。
異国で得たこの評判は、帰国後に外国奉行・勘定奉行として交渉の矢面に立ち続ける小栗の仕事ぶりを、そのまま先取りするものでした。海の向こうで「使節団の中心」と書かれた人物が、国内では長く正当な評価を受けられなかった――その落差もまた、この人の生涯を考えるうえで見過ごせない点です。
典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年(『ニューヨーク・ヘラルド』『ニューヨーク・タイムズ』ほか米紙の記事を所引)