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大西洋・喜望峰を回って帰国

大西洋・喜望峰・ジャワ・香港・台湾を経て帰国。日本人として初めて世界を一周した使節団となりました。

ワシントン、フィラデルフィア、ニューヨークでの日程を終えた使節団は、来た道を引き返しませんでした。一八六〇年六月三十日(邦暦五月十二日)の朝、アメリカ海軍の軍艦ナイヤガラ号は、ニューヨーク港を静かに離れ、そのまま東へ――大西洋へ進みます。以後四か月半、船は西へ戻ることなく地球を回り続け、使節団は日本人として初めて世界を一周した集団になりました。

寄港地をたどる

坂本藤良『小栗上野介の生涯』は、この帰路を日付入りで追っています(西暦)。

  • 七月十六日 真夏の北大西洋を横断し、アフリカ西端のベルデ岬に接近。ポルトガル領のポルトグランデ港に入港。

  • 七月二十九日 東半球に入る。翌三十日、赤道を越える。

  • 八月六日 コンゴのルアンダに上陸。ポルトガル領、今日のアンゴラで、約十日間を過ごす。

  • 八月二十六日 アフリカ南端の喜望峰を通過。その後、南極大陸に近いサンポール島、アムステルダム島に寄る。

  • 九月二十七日 北上してオーストラリア西方のクリスマス島へ。九月三十日、ジャワのバタビア(ジャカルタ)入港。

  • 十月十日 バタビア出航。十月二十一日、香港着。その十日後、台湾。

  • 十一月四日 琉球沖を通過。八日、甲板から白い雪におおわれた富士山が見えた。

  • 十一月九日(邦暦九月二十七日) 船は静かに江戸湾に入り、品川沖に停泊。

小栗自身の記録

小栗の手もとの記録は、邦暦で同じ航路を記しています。五月二十九日にイギリス領「シントウキンセント」に着いて水と石炭を買い入れ、六月二日に出帆。六月二十四日、アフリカ国の「ロアンダ」という港に碇泊し、七日滞留。ここはポルトガル領で、珊瑚珠などが沢山に取れる場所であること、そして――

赤道直下ニテ熱キ地也。生鶏卵ヲ砂中ニ埋メテ熟スト云

七月朔日に出帆、七月十一日に「阿弗利加国ノ南辺、喜望峰ヲ過ル」。このあたりでは、日本で北極星を見るのと同じように南極星が見える、とも書きとめています。八月十五日にシワ岬、八月二十一日にジャガタラ国の港へ碇泊し、バタビアに上陸。ここはオランダ領で、人口十一万八千三百人、家には瓦を用いていて日本とほぼ同じだ、と観察しています。石炭・水・食糧を積み込み、八月二十七日に出帆して北へ向かいました。

港の名、滞留日数、人口、屋根の材質。記していることの性質が、そのまま小栗という人の目の付けどころを示しています。

寄港地が教えたこと

バタビアで、一行はひとつの報せを受け取ります。アヘン戦争で悪名の高いイギリス軍が、こんどは中国の北京に侵入した――使節団は心を暗くしました。小栗はここでオンリュスト島に渡り、オランダの造船所を視察しています。

船がアジアに近づくにつれ、イギリス船と行き会うことが多くなりました。小栗はそのことに注目し、警戒心を強めた、と坂本藤良氏は書いています。往路の太平洋では見えなかったものが、復路の寄港地には並んでいました。ジャワも、香港も、台湾も、すでに欧米の影響が色濃く及んでいた土地です。開国したばかりの日本がアジアの中でどこに立っているのかを、航路そのものが教えていました。

小栗は、この四か月半の船上で、為替交渉と貨幣問題についての長大な報告をまとめ上げています。ワシントンでの通貨交渉で突きつけられた問題を、帰りの船で文書に仕上げたのです。

帰国後、外国奉行へ

正月に品川を出て、帰着は秋。季節は二度めぐっていました。帰国した小栗は二百石を加増されて二千七百石となります。世界を知っているわずかな幕臣の一人として、出番はすぐに来ました。外国奉行・堀織部正が自決したあとを継いで、同年十一月に外国奉行に就任します。誰の目にも最有力の候補でした。

就任の翌月、十二月五日には、アメリカ公使ハリスの書記官ヒュースケンが麻布の古川橋で斬られる事件が起こります。各国公使は幕府を責めて江戸の公使館を閉ざし、横浜に退去しました。船から降りた小栗を待っていたのは、そういう仕事でした。

もっとも、品川沖に着いたその瞬間、一行はまず言いようのない違和感に包まれます。渡米中に日本で起きていた、ある大事件のためでした。

典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/『小栗日記』群馬県史料集第七巻/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年

→ 桜田門外の変を知らぬままの帰国 / 船中でまとめた為替の議論 / 外国奉行としての仕事へ