使節団が太平洋の彼方にいたころ、日本国内では大きな政変が起きていました。安政七年三月三日、ひな祭りの日、大老・井伊直弼が雪の江戸城桜田門外で水戸浪士らに討たれた、いわゆる桜田門外の変です。
この使節団を送り出したのが、ほかならぬ井伊直弼でした。大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』は、小栗の抜擢を井伊によるものとし、井伊が「忠順の傑材に着目し、将来幕府の枢要なる人物となるべきを察した」ためだと伝えています。同書はそのうえで、忠順が帰朝したとき井伊はすでに暗殺されており、再び会うことはなかった、と記します。小栗が品川を出帆したのは正月十八日。大老が斃れたのは、その一ヶ月半後のことでした。
フィラデルフィアの新聞
ところが、一行がまったく何も知らなかったわけではありません。フィラデルフィア滞在中、小栗たちはアメリカの新聞に不思議な記事を見つけていました。見出しは「大君の暗殺」。大君(タイクーン)とは将軍を指す言葉です。
アメリカ政府は、このニュースを日本使節団に隠していました。しかしどういうわけか、日本人がアメリカの新聞を読んでいることには気づいていません。その新聞自体に「このことを日本使節団に知らせないことが、われわれの礼儀だ」と書かれていた、というのですから、隠し方としては間の抜けた話です。
小栗は、この記事を額面どおりには受け取りませんでした。もともとアメリカの新聞はあまりあてにならないと考えていたうえ、記事には明らかな誤りがあったからです。暗殺されたのは「宮殿(江戸城)に向かう途中」だとありますが、将軍が江戸城に「向かう」ということはありえません。将軍は城にいるのですから、それだけで記事の信頼性は揺らぎます。
不確かな情報をそのまま団員に伝えれば、混乱を招くだけだ――そう判断した小栗は、これを広げませんでした。各人の日記から判断するかぎり、この記事を知っていたのは正使・新見正興、副使・村垣範正、目付・小栗忠順、そして森田・名村の範囲にとどまります。森田ですら、新聞記事そのものを見たわけではなかったようです。
「安政七年五月」の日記
事件のために元号は「安政」から「万延」へ改められていましたが、洋上の使節団はそれを知りません。団員たちは、ありもしない安政七年五月の日付で日記を書き続けました。
安政七年五月五日、晴、金貨の書類反訳す。/安政七年五月八日、晴、ベルリ邸宅に行く。ベルリ既に没す……(名村の日記)
ペリーの未亡人を訪ね、室内に飾られた日本の掛け軸や漆器、奇石、貝類を見せられた日の記録です。「是れ皆、先人ペルリ貴国より持帰りし品物なり」と寡婦は語りました。その日付が、日本にはもう存在しない年号で書かれていたのです。
祝砲の鳴らない品川沖
帰路のナイヤガラ号は、喜望峰を回り、バタビア、香港、台湾を経て北上しました。バタビアでは、イギリス軍が北京に侵入したというニュースを聞かされています。小栗は、船がアジアに近づくにつれてイギリス船と行き合うことが多くなるのに注目し、警戒心を強めました。四ヶ月半の船上で、彼は為替交渉と貨幣問題についての長大な報告書をまとめています。
十一月八日(邦暦九月二十六日)、甲板から白い雪をかぶった富士山が見えました。翌十一月九日(邦暦九月二十七日)、船は静かに江戸湾に入り、品川沖に停泊します。
そのとき、沿岸はひっそりと鳴りをしずめていました。当然あるはずの祝砲は、ついに一発も鳴りませんでした。使節団を無事送りとどけたアメリカ軍人たちは、あたたかな歓迎を内心期待していただけに、沿岸の冷たい反応にひどく落胆した――と、同行のアメリカ人新聞記者が本国へ伝えています。
品川に上陸した団員たちは、ここではじめて、不確かだった新聞記事が事実だったこと、そして安政七年に五月などはなかったことを知るのです。
帰国後の日々
冷ややかな出迎えのあと、十月二十日、小栗は正使・副使とともに将軍の御座の間に召され、金十枚と時服三を賜ります。のちに上州多野郡の森村・小林村が采地に加えられます(加増高は資料によって二百石・三百石と差があります)。十一月八日には外国奉行に任じられています。世界を一周した見聞を持ち帰った男が、休む間もなく幕政の実務に投じられました。
強権を振るった井伊直弼という重しを失った幕府は、このあと公武合体や攘夷をめぐる混乱をいっそう深めていきます。自分を抜擢した人物の死を洋上の新聞で半信半疑に知り、帰り着いた港で裏づけられる――小栗の後半生は、祝砲の鳴らないこの品川沖から本格的に始まりました。
典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年