文久元年(1861)、外国奉行だった小栗は、対馬を不法に占拠したロシア軍艦への対応のため現地へ赴きます。そこから文久三年(1863)四月の辞任まで、二年あまりの間、小栗は一つの役職にとどまることなく、めまぐるしく立場を変えながら幕政の課題に向き合いました。
対露交渉、相次ぐ人事異動、歩兵奉行としての洋式陸軍改革、生麦事件への対応、そして「上野介」への改名――。この章では、対露交渉と幕政改革者としての小栗の姿を、九本の記事に分けて紹介します。
この章の記事
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ロシア軍艦ポサドニック号が対馬・芋崎を占拠した事件。外国奉行の小栗が現地に赴き、艦長ビリレフと直接交渉にあたりました。
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一歩も引かなかった対馬での交渉ぶり。追い詰められてもなお筋を通した、小栗の気迫を伝える逸話です。
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実力の裏づけなき交渉の限界を痛感した対馬事件。後年の財政・技術改革路線につながる転機だったとする見方を紹介します。
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辞任後の「無役」期間を経て、文久二年に相次いだ役職の異動。本人が後年語った任免の回数も紹介します。
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歩兵奉行に就いた小栗が推し進めた、歩兵・騎兵・砲兵からなる洋式三兵制度の導入。
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イギリス人殺傷事件をめぐる外交処理。外国奉行時代の経験を持つ立場からの関与が伝えられます。
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文久二年、豊後守から上野介へ。不吉な名だと諫める者があってもなお、この名を選んだと伝わります。
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文久三年四月、一橋慶喜への加増案に反対してこれを撤回させ、みずから責任をとって辞任しました。
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小栗が辞任した同じころ、勝海舟は神戸海軍操練所の設立を許されています。対照的な二人の歩みをたどります。
この先の展開
辞任からほどなく、小栗は幕政に復帰します。以後、勘定奉行には都合四度任じられ、外国奉行・陸軍奉行並・軍艦奉行なども歴任しました。横須賀製鉄所の起工や日本初の株式会社「兵庫商社」の設立は、その後半生の事績です。→ 横須賀製鉄所/経済改革の事績
慶応四年の罷免から最期までは慶応四年 ― 罷免から水沼河原までにまとめています。