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頻繁な人事異動、9年で18回

文久二年、わずか十カ月ほどの間に小栗は五つの役職を渡り歩きました。

小栗の経歴を年月で並べてみると、一つの役に落ち着いている時期のほうが短いことに気づきます。阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』は巻頭近くに「小栗上野介の任免譜」を掲げ、安政六年(1859)九月の目付任官から慶応四年(1868)正月の罷免まで、わずか九ヶ年間に十八回の任免があったと数えました。平均すれば半年に一度、辞令が出ていた計算になります。

召し出されるまで

そこに至るまでの道のりは、むしろ平凡な旗本の昇進でした。大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』によれば、弘化四年(1847)四月十六日、二十一歳の小栗は「芸術出精」が上聞に達して部屋住みから召し出され、両御番の一つ西丸御書院番(秋田淡路守組)に番入りし、切米三百俵を下賜されます。大坪元治氏はこれを「旗下の子弟中優秀なるものを抜擢して登用する制度にして登龍門なり」と説明しています。

嘉永六年(1853)七月五日に進物番出役を仰せつけられ、西丸から本丸勤めに移ります。ペリーが浦賀に来航したのは、その一ヶ月前の六月三日でした。安政二年(1855)七月、父・忠高が新潟奉行在勤のまま任地で病死し、同年十月二十二日に跡目を相続して、小栗家当主の通称である「又一」を名乗ります。安政四年(1857)正月十一日に御使番、同年十二月十六日に布衣(従六位相当)。そして安政六年(1859)九月十二日、三十三歳で本丸御目付に任じられ、十一月二十一日に従五位下・豊後守に叙任されました。

文久二年、十ヶ月で五つの辞令

万延元年(1860)十一月八日に外国奉行、文久元年(1861)九月二十六日にその職を免ぜられて無役。転機は文久二年(1862)です。この一年に出た辞令を、大坪元治氏の略年譜から拾うと次のようになります。

  • 三月 御小姓組番頭を命ぜらる

  • 五月十八日 御軍制御用取調を命ぜらる(幕閣の枢要十一名が選ばれ、勝麟太郎もその一人)

  • 六月五日 勘定奉行(勝手方)に任じ、名を上野介と改む

  • 八月二十五日 勘定奉行勝手方を免ぜられ、同日、江戸南町奉行に任ぜらる

  • 十二月一日 江戸町奉行を免ぜられ、初代の歩兵奉行に任ぜらる

  • 十二月五日 勘定奉行(勝手方)を兼任

勘定奉行の在任はわずか二ヶ月と二十日ほどでした。大坪指方・穂積驚『小栗上野介』は、この免職の原因を、ある席上での次の放言にあったらしいと伝えています。

今日国家多事、財政困難の時に当り、腰抜け武士に高禄を給するは無用なり、よろしく此等のものを削らざるべからず、尚、假令旧例古格なりと雖も、無用の役員、無用の役局は廃して然る可し

同書は、それでも「惜しい男だから、然らばと町奉行」、それも免じて次は歩兵奉行、しかも「その五日目に、再び忙しい勘定奉行勝手方を兼任仰せつけられた」と書いています。軍制改革を始めれば先立つものは金であり、その両方を任せられる人間が他にいなかった、ということです。

勘定奉行を四度つとめる

文久三年(1863)四月二十三日に歩兵奉行・勘定奉行をともに免ぜられて以降も、出入りは続きます。元治元年(1864)八月十三日に勘定奉行勝手方へ復帰、十二月九日に免職、十二月十八日に軍艦奉行、慶応元年(1865)二月に軍艦奉行を辞職、同年五月四日にまた勘定奉行勝手方。坂本藤良『小栗上野介の生涯』はこの復職を「わずか三ヵ月の免職期間であった。こんどもまた、勘定奉行勝手方であった。彼のほかに、苦しい財政をきりまわすことができる人間がいなかったのである」と評しています。

慶応二年(1866)八月に海軍奉行並を兼ね、慶応三年(1867)十二月には陸軍奉行並を兼職(主務は勘定奉行)。こうして数えると、勘定奉行勝手方に就いたのは生涯に四度になります。旗本にとって勘定奉行勝手方は到達しうる最高位の役でした。福地源一郎は、幕府の重職が門閥で決まるなかで「独り御勘定奉行のみは、民間の事情に通ずるの材を要する以て」定員五名のうち必ず一、二名は抜擢の人があった、と書き残しています。

「七十余回」という誇張

世間では小栗の任免は「七十余回」に及んだと言われ、百科事典にまでそう記されました。阿部道山氏は「世に上野介の任命七十餘回なりと稱されてあるが、これは事實でない」と退け、正しくは九ヶ年で十八回だとしています。それでも異例の頻度であることに変わりはありません。江戸城では「またも小栗のお役替え」と御坊主に軽口を叩かれた、と大坪指方・穂積驚『小栗上野介』は伝えています。

なぜこれほど動いたのか。阿部道山氏は、小栗の政策が幕府中心ではなく「世界の動向に觸れた日本的革新政策」であったために幕府要人が異端視したのだと見ています。別の箇所では、閣老の側に人を得ず「小栗を以て幕府に反する人と卽斷したるによるものなり」とも書いています。いずれにせよ、任免のたびに新しい持ち場の実務を把握し直しながら、財政・軍政・司法・外交の各分野で仕事を残しました。

典拠:大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年/大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年/坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年

→ 歩兵奉行としての洋式陸軍改革 → 「上野介」という名を選んだ理由