文久二年(1862)十二月一日、小栗忠順は江戸町奉行を免ぜられ、歩兵奉行を命じられました。設けられたばかりの役で、小栗が初代です。この日から年末にかけて、陸軍奉行・陸軍総裁・海軍総裁・歩兵頭・騎兵頭・大砲組頭といった新しい役職が次々に発令されます。幕府が軍制を組み替えにかかった、その最初の人事でした。
下地は同じ年の五月にできていました。小栗はこのとき「御軍制御用取調」を命じられています。発令の趣旨はこうでした。
鎖国ノ御制度御一変遊バサレ候上ハ、御軍制モ亦御一変遊バサルベク候間、一致心力ヲ尽シ、神君以来ノ御武威ヲ内外ニ布キ候ヨウ一際励ムベキ事
この取調掛は上局・下局に分かれ、木村摂津守や勝麟太郎の名も並んでいます。開国したからには軍制も変える、という方針を、幕閣が正面から打ち出したものでした。
歩・騎・砲、三兵制度の導入
歩兵奉行となった小栗が決めたのは、歩兵・騎兵・砲兵の三兵科を柱とする洋式三兵制度の採用です。武器や訓練法だけでなく、軍の編成そのものを西洋式に組み替える。坂本藤良氏は、これが「明治日本の軍隊組織の基礎となる」と書いています。
ただし、この段階の実体は乏しいものでした。教本は訳本『三兵タクチーキ』一冊。訓練にあたれるのは、長崎でオランダ士官から調練を受けた者が数えるほどいるだけです。三年後、小栗自身が栗本鋤雲にこぼしています。
幕府が陸軍について、騎兵、砲兵、歩兵の、近代的な“三兵制度”の採用を決定したのは文久二年のことである。それからもう四年になるのに、さっぱり進んでいない。騎兵はと言えば、ただ馬術をやっているだけ。砲兵や歩兵についていえば、訳本『三兵タクチーキ』と首っぴきで、あて推量でそれらしいことをやっているだけである
この不満が、フランス公使ロッシュへの陸軍教官招聘依頼につながります。慶応二年九月三十日に仏士官シャノワーヌらの招聘契約が結ばれ、十一月十九日、横浜太田陣屋に陸軍伝習所が開かれて歩・騎・砲三兵の士官養成が始まりました。翌慶応三年六月、伝習所は江戸の陸軍所に移され、越中島と駒場野が練兵場にあてられます。小栗が文久二年に打った杭に、四年かけて建物が立ちました。
財政と軍政、両輪での改革
歩兵奉行になった五日後の十二月五日、小栗は勘定奉行勝手方を兼任させられます。軍を近代化するには財源が要る。その財源を工面できる人間が、ほかにいなかったからです。
もっとも、その半年前には勘定奉行に就いて二か月と二十日で免じられてもいます。理由は、ある席上でのこの発言だったと伝わります。
今日国家多事、財政困難の時に当り、腰抜け武士に高禄を給するは無用なり、よろしく此等のものを削らざるべからず、尚、仮令旧例古格なりと雖も、無用の役員、無用の役局は廃して然る可し
財政と軍政を一つのものとして扱う姿勢は、のちの兵賦金制度に行き着きます。旗本に領地の石高に応じて兵と費用の両方を出させる仕組みで、慶応三年九月、万石以下二百石以上を対象に十か年の期限で実施されました。福地源一郎は『幕末政治家』にこう書いています。
幕府人士の銃隊は堕弱にして、実用に堪えざるを看破し、小栗は旗本等に課するに、其領地の高に応じて、賦兵を以てし、併せて其費用を出さしめ、是を以て数大隊の歩兵を組織し、遂に徴兵制度の基礎を建てたり
軍馬にも手を入れました。フランスに蚕卵紙を送り、その代償としてアラビア馬を輸入して馬匹の改良をはかっています。三兵のうち騎兵を成り立たせるための手当でした。
恨まれた二年
歩兵奉行時代の小栗は、洋装まがいの筒袖で登城して叱られています。当時江戸の市中に出回った落書は、「小栗の奴の形を見なせへ、筒ほう襦袢で登城するとは、異国におとった地獄の御政事」と噛みつきました。文久三年の春には、日本橋の高札場に「決死之者共」と署名した張紙が出ます。小栗以下の役人を名指しして、井伊・安藤の路線を継ぐ者として誅戮を加える、という内容でした。四月十三日には、清河八郎の浪士隊が駿河台の小栗邸を夜襲して小栗を人質に取る計画を立てています。清河がその日の夕刻に暗殺されたため、未遂に終わりました。
この間、小栗は朝鮮国使の接待や講武所御用取扱といった金のかかる役も抱え、生麦事件の後始末も担っています。イギリスが幕府に要求した賠償金は十万ポンド。薩摩藩が支払った二万五千ポンドも、結局は幕府からの借金でした。
歩兵奉行在任は、文久三年四月二十三日に勘定奉行ともども免職となるまでの五か月足らず。七月二十八日には陸軍奉行並となります。この前後、小栗は一橋慶喜への加増――摂津・河内・和泉の幕領を削って与える案――に真っ向から反対しており、それが免職の引き金になったと伝えられます。目まぐるしい人事異動の一齣でした。
典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年。栗本鋤雲の言は『匏菴十種』、福地源一郎の言は『幕末政治家』による。
→ 生麦事件の余波と外交処理 / フランスとの提携 / 辞職と再起