横須賀製鉄所の建設をフランスに委ねると決まるまでには、いくつもの選択肢を比べる過程がありました。当時、幕府と関係を持っていた国はオランダ・イギリス・アメリカ・フランスと複数あり、どこに技術協力を仰ぐかは簡単に決められる話ではありません。栗本鋤雲は後年、その議論の様子を『匏菴遺稿』に書き残しています。「然らば何の国なりとも、其然る可きを撰まん」――どの国でもよい、ふさわしい国を選ぼう、というのが出発点でした。
オランダ技師が語った現実
最初に相談を持ちかけた相手は、鎖国以来の交易相手であるオランダでした。幕府は長崎に役人を派遣し、オランダ人技師と問答を交わしています。その記録が残っています。
江戸の近くに製鉄(造船)所をつくりたいが、長崎製鉄所にある機械で足りるか。答えは「いいえ、長崎の設備ではせいぜい船の修理ぐらいしかできません。現在、世界で、軍艦、武器、何でもつくれる設備を持つのはイギリス、フランスだけです。ロシアでもそんなわけにはいきません」。では江戸の近くに建てたいので調査に来てほしい、と頼むと、江戸湾は浅瀬だから建設は不可能、自分たちは長崎勤務なので江戸へは行けない、と断られます。盛大な造船所を一つ建てるにはどれほどの費用と日数がかかるかと重ねて尋ねても、「さあ、よくわかりません」「いまは勘定できません」とあいまいな答えしか返ってきませんでした。
このやりとりで、幕閣が長く過信していたオランダの地位が、すでに過去のものであることがはっきりします。同時に、イギリスとフランスが実力を持っていることも分かりました。なお、このときオランダ側が挙げた造船所の名は、フランスのツーロンとシェルブール、イギリスのポーツマスとウールウィッチでした。のちに横須賀製鉄所は、このツーロン港の三分の二の面積を基礎として設計されます。
翔鶴丸を六十日で直したフランス
決め手になったのは、実際の仕事ぶりでした。元治元年(1864)、幕府の所有艦・翔鶴丸が破損します。たまたまフランスの軍艦が横浜に寄港しており、技師も乗り組んでいました。老中は栗本を呼び、フランス人技師に修理ができるかロッシュ公使に打診せよと命じます。ロッシュは即座に快諾し、修理は六十日あまりで終わりました。仕上がりを見た栗本が驚いたほどの、完璧な出来でした。
この修理を、小栗自身も船底まで入って検分しています。直後に横浜の街角で栗本を呼び止めた小栗は、馬を下りて「見たとも、見たとも、よく見ましたぞ」「見事に出来ましたなあ。感服いたした」と褒めたと、栗本の手記に残っています。修理に使う鉄管が間に合った経緯を、栗本が「フランス軍艦の持っている管は大きすぎたので、上海にあると聞いて無断で取り寄せた」と打ち明けると、小栗は手続無視をとがめるどころか「妙々」と面白がりました。そしてこの場で、佐賀藩献納の機械を使ってドックを造れないか、という話が持ち出されます。横須賀へつながる最初の一歩でした。
アメリカ公使の一件
アメリカが候補から外れた理由は二つあります。ひとつは南北戦争のさなかで、海外への大規模な技術協力に応じられる状況になかったこと。もうひとつは、信用の問題でした。栗本は『匏菴遺稿』のなかで、米国公使ブラーインが井上信濃守をだまして莫大な前金を受け取り、富士山艦を造るという件で不正を働いた疑いが、すでに幕府側に漏れ聞こえていた、と記しています。この一件が、アメリカへの信頼を大きく損ないました。
イギリスについては、小栗自身の見聞がありました。遣米使節からの帰途、アフリカや東南アジアでイギリス植民地の実情を目のあたりにし、警戒心を強めていたのです。帰国後にはロシアの対馬侵寇にも関わりましたが、その発端も、対馬の租借を幕府に拒まれたイギリス艦隊が周辺を強引に測量したことにありました。加えて当時、薩摩は薩英戦争を経て、長州は四国連合艦隊の下関砲撃を経て、いずれも急速にイギリスへ接近しつつあります。幕府と薩長が大きく方向を分けたのは、翔鶴丸修理の前後数ヵ月のことでした。
「唯佛國は巽順にして」
こうして残ったのがフランスです。栗本が書き留めた小栗の言葉は、次のようなものでした。
海外各国皆我が師なれど、餘国は傑傲不遜にて、我を恐嚇し其不馴を欺き、飽迄利を貪らんとするのみなれど……唯佛国は巽順にして、他に比すれば其設も稍や信ずるに足れば、矢張佛国に委託する様爲す可し
どの国も日本の師ではあるが、他の国は傲慢に構えて日本を脅し、不慣れにつけこんで欺き、利をむさぼろうとするばかりだ。ただフランスだけは腰が低く、他と比べれば設備も多少は信用できる――という意味です。積極的な礼賛ではなく、比較の末の消去法に近い判断でした。
それでも小栗は念を入れました。横浜に停泊中のフランス軍艦を自ら視察したのです。その艦は建造後八年たっていながら一度も故障がないとのことで、ポーハタン号やナイヤガラ号といったアメリカの最新鋭艦に乗った経験を持つ小栗の目にも、決してひけをとらないものに見えました。当時のフランスの建艦技術は、イギリスと並んで世界の最先端にありました。
フランスの技術と資金協力を軸に進めることが決まると、ロッシュは、上海にいる海軍技師ヴェルニーが大変優秀だから、希望するなら呼び寄せてもよいと申し出ます。『海軍歴史』には「元治元甲子年、勘定奉行小栗上野介及監察栗本瀬兵衛をして仏国公使レオンロセスに製鉄所起立方案を諮詢せしむ」と記録されました。これは他国との関係を絶ったという話ではありません。一つの大事業を進めるにあたり、条件を見比べたうえでフランスを選んだ、という位置づけです。
典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年(栗本鋤雲『匏菴遺稿』所収の記述を含む)