JISEKI

「ドックの名も知らぬ」栗本の驚き

国産ドックを熱心に説く小栗と、その言葉すら知らなかった栗本。二人のやり取りが伝わっています。

横須賀製鉄所の構想が動き出した瞬間を伝える記録に、盟友・栗本鋤雲が「ドック」という言葉すら知らなかった、という一節があります。元治元年(1864)十二月、横浜の街角。翔鶴丸の修理の出来ばえをひとしきり褒めたあと、小栗が「さも無造作に」話し出した用件が、それでした。

船が係留された横須賀造船所ドックの写真
横須賀造船所のドック。明治三十三年(1900)刊行の書籍より。出典:瀬川光行編『日本之名勝』史伝編纂所、1900年、国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/762809)

さびていく機械の話から

小栗が持ちかけたのは、さしあたり機械の始末の話でした。先年、佐賀藩から蒸気動力の製鉄・造船機械が一式、幕府に献納されている。おそらく藩主・鍋島閑叟は国許に造船所を建てる目的でオランダから買い入れたのだろうが、建造費が莫大なうえ、担当できる人間がいない。困って幕府に献納したのだろう――そして、こう続けます。

ところが、幕府も、先年、この機械でドックと製鉄所を建てようとして、担当者も決め、測量までしたのですが、やはり専門家がいないので中止してしまったのです。しかし、わたしが思うのに、たくさんの機械をさびるにまかせては、閑叟翁のせっかくの好意を無にすることになります

そこで、翔鶴丸を修理したフランス人技師――たしかドロートルといったと思うが――に、もうひと骨おってもらえないだろうか。小栗の提案はそこまで具体的でした。ところが聞いている側は、そうではありません。栗本自身の手記によれば、彼は「ドックの名さえ初めて聞いたほどで、まして製鉄所などはまったく知らなかった」のです。

知らないまま、その夜のうちに公使館へ

小栗はすでに、アメリカ東部とイギリス植民地の造船所をつぶさに見てきていました。遣米使節でワシントンの海軍工廠を歩き、船を水から上げて船底や機関を修理する設備を自分の目で確かめている。渡米経験のない栗本にとっては、話の前提そのものが未知のものでした。

それでも栗本の反応は早い。「さあ、どうでしょうか。何なら今夜でも、フランス公使館に行って、話してごらんになってはいかがですか。よろしければおともしましょう」。小栗は喜び、ただちにその夜は神奈川に泊まると決め、旅館を予約して、二人で公使館を訪ねています。知らない言葉を聞かされたその日のうちに、話を通すところまで運んでしまったわけです。

「われわれ風情のできることではありません」

ロッシュ公使の返事は慎重でした。ドロートルにそのような大仕事ができるかどうかは分からない、ジョーライス提督にたずねてみましょう――。提督の意見は、ドロートルはまだ若輩で修理程度ならできるがドックの建造は無理である、一等蒸気士官のジンソライが上海から帰ってきたら機械類を点検させましょう、というものでした。

そのジンソライの点検結果が、小栗を落胆させます。

この機械は、小型で、馬力も弱いので、鉄具の小修理はできますが、とてもドックを造り、大仕事ができるというものではありません。また、ドックを造り、船艦をつくりだすといった大事業は、とうていわれわれ風情のできることではありませんから、それはそれでしかるべき専門家をお雇いください。この機械は、横浜の近くにすえつけて、小さな修理用としたならば、大変便利ではないかと思います

手持ちの機械では足りない。専門家を外国から雇うしかない――結論は、はじめに思い描いた「ありあわせでやる」案を否定するものでした。のちに横浜製鉄所が「小さな修理用」の工場として先に建てられ、そこで人を育ててから横須賀に本体を築く、という段取りになっていくのは、この一点の報告が出発点です。

熱心に説いた小栗

落胆した小栗は、あらためて栗本を説得にかかります。

日本はすでに軍艦を持っているのですから、故障はしょっちゅう起こるわけです。だから、修理する場所がどうしても必要です。まして、これからは艦船を増やさねばなりません。ところが、これまでのように外国の中古船を買うにしても、新しく発注するにしても、こちらに修理する場所がなければ、故障したらたちまち用をなさなくなります。故障のたびに外国に運搬したら、往復の費用だけでもばかになりません。ですから、何としても良い職工を外国から呼びよせ、近港でしかるべき場所をえらび、ドックを建造することに決めるべきではありませんか

威勢のよい議論ではなく、費用の話です。買った船は必ず壊れる、壊れたら直す場所が要る、直す場所がなければ買った船は使えない――この順序で押していったところに、勘定方としての小栗の性格がよく出ています。栗本は、この説得に動かされました。

言葉を知らなかったことを笑う話として語られがちな一節ですが、記録が伝えているのはむしろ逆のことです。知らないと認めたうえで、その日のうちに公使館へ同道し、以後はこの構想の最も強力な理解者となってフランスとの交渉を共に進めた。二人の分担は、この十二月の会話から始まっています。

典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年(栗本鋤雲の手記による)

→ ワシントン海軍工廠を見た男 / なぜフランスを選んだか / 先に建てられた横浜製鉄所 / 栗本鋤雲という人