横須賀製鉄所の話をするとき、たいてい飛ばされる工場があります。横浜製鉄所です。横須賀より先に作られ、横須賀のために作られ、そして横須賀の影に隠れました。
大きな工場の前に、小さな工場を
いきなり大規模な造船施設に取りかかるのではなく、まず小さな工場を作って準備段階とすべきだ――そう助言したのは、フランス公使のレオン・ロッシュでした。この助言にもとづいて慶応元年(1865)に建てられたのが横浜製鉄所です。
役目は二つありました。一つは日本人技術者を育てること。もう一つは、横須賀に本格的な造船施設を建設するために必要な機材を準備することです。船を造る工場を造るための工場です。
場所は横浜、いまのJR石川町駅の周辺にあたります。大坪指方・穂積驚『小栗上野介』は、太田川の川縁の沼地を埋め立てて敷地としたと書いています。
なぜ本体は横須賀だったのか
横浜で準備を進めながら、本体の建設地は横須賀に決まりました。理由として共著が挙げるのは、地形です。フランスが世界に誇る軍港ツーロンと、横須賀の地形が酷似していた。地中海に臨むツーロンを知り尽くしていたヴェルニーにとって、横須賀は見慣れた形の湾でした。そっくり同じとはいかなくとも、三分の二の規模には仕上げられる――そう考えたのではないか、と共著は書いています。
横須賀製鉄所の起工は、慶応元年十一月十五日。ヴェルニーは技師・職人・医師・教師など、およそ百三十人を伴って来日しました。
「大学出たての一書生のよう」と疑われた男
そのヴェルニーを、当初は日本側も疑っていました。共著が引く柴田剛中の記録によれば、パリで初めて会ったときの印象はこうです。年は二十八、九。体つきは細長く、近眼で、髭はまばら。身なりに頓着せず、大学を出たばかりの一書生のように見えた。
柴田は随行員に、こう漏らしています。小栗や栗本らはフランス公使の甘言に乗せられて、こんな若い士官を横須賀製鉄所長の重職に就ける約束をしてしまった、軽率だったのではないか――と。
ところがトゥーロンの巡回を終え、パリで同居してみると、その仕事ぶりは並ではありませんでした。日本の造船廠のために技師や職人を雇い、機械を注文する権限がヴェルニーにあると知れ渡ると、縁故を頼んだ依頼状が千通近く舞い込みます。情において断りにくいものも少なくなかった。それをヴェルニーは一通残らず柴田に見せたうえで、人選も注文も一切は理事官の権限であり、自分は私情を挟まない、と伝えました。
人選も注文も精確で、処理は果断でありながら緻密、柴田の言うことを勝手に曲げることもない。柴田はすっかりその人物に惚れ込み、一行は皆、ヨーロッパの人はこうも敏捷なものかと驚き入ったと記録は伝えます。共著の著者は、ヴェルニーを非難した文章に出会った記憶がない、とも書き添えています。
十三万両を「高すぎる」と言った
ヴェルニーの仕事ぶりを伝える逸話が、大正四年(1915)九月二十七日付の報知新聞特別版に載っています。横須賀の土豪・永島家の当主が語ったものです。
永島宇兵衛は明治初年まで村名主をつとめた人で、ヴェルニーは住宅ができるまでの約束で永島家に滞在していました。日本語はまったく話せなかったものの、たいへん親切な人で、官舎へ移った後も何かあるとすぐ「宇兵衛さん」と呼びによこしたといいます。
あるとき村名主の俸給を尋ねられ、無給だと答えると、ヴェルニーは気の毒に思って老中へ書面を出し、製鉄所のために尽力しているのだから第一船渠の工事を請け負わせてやりたい、と推挙しました。見積書を出せと言われた宇兵衛は、素人の悲しさで見当がつかず、当てずっぽうに十三万両と書きます。
ヴェルニーは一目見て吹き出し、これは高すぎる、八万両で請け負え、それでも三万両は確かに儲かると言いました。宇兵衛は怖がって手を引いてしまいます。結局この工事は入札となり、四万八千両で落札されました。「それ御覧」とヴェルニーは笑った、と談話は伝えています。
数字の感覚が、そのまま人物の輪郭になっています。
幕府が倒れても、帰らなかった
ヴェルニーは、自分を雇った幕府が崩壊しても帰国しませんでした。横須賀・横浜の両製鉄所が明治政府に受け継がれたのちも働き続け、明治九年(1876)三月に辞職するまで、十一年を日本で過ごしています。
横浜製鉄所は、その後の造船業の礎の一つとなりました。横須賀ほど語られることはありませんが、技術者を育て、機材をそろえるという地味な役目を最初に引き受けたのがこの工場です。いきなり大きなものを作らず、準備のための工場から始めた――その判断そのものが、この事業の性格をよく表しています。
典拠:大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年/横須賀市「横須賀とフランスの歴史~横須賀製鉄所の建設と日仏交流」/報知新聞 大正四年九月二十七日付特別版(共著所引)