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横須賀製鉄所 ― 日本の近代工業のはじまり

慶応期に築かれたドライドックが、いまも現役で使われています。百六十年近く前の設備が動き続けている ― この一事が、この仕事の性格を表しています。

横須賀に、いまも現役で使われているドライドックがあります。慶応期に築かれたものです。百六十年近く前に造られた設備が動き続けている――この一事が、小栗上野介という人の仕事の性格をよく表しています。

名前は「製鉄所」ですが、鉄を製錬する施設ではありません。当時の言葉づかいで鉄を扱う総合工場という意味でした。のちに横須賀造船所と呼ばれます。

小栗の事績の筆頭に挙げられるのが、慶応元年(1865)に起工した横須賀製鉄所です。名前は「製鉄所」ですが、鉄を製錬する施設ではありません。当時の言葉づかいで、鉄を扱う総合工場という意味でした。のちに横須賀造船所と呼ばれます。

なぜ必要だったか

幕府も諸藩も、すでに外国から洋式船を買って使い始めていました。しかし故障するたびに外国まで曳いていって直すしかない。時間も費用もかかる。国内に造って直す場所がなければ話にならない――勘定奉行だった小栗は、資金は自分の責任で工面すると言って周囲を説得しました。

この工場の四つの特徴

横須賀が単なる造船所と違っていたのは、次の四点です。

  • 一、総合工場だったこと 船だけを造るのではなく、あらゆる工業製品を作れる場所として設計された。モデルは、小栗が遣米使節として実際に見たワシントン海軍造船所である。

  • 二、初めから蒸気機関を原動力にしたこと それまで日本の工場は川の落差を使う水力に頼っていた。横須賀は最初から水力に頼らず、蒸気機関で動く近代工場として設計された。

  • 三、人を育てる場だったこと 慶応二年から技術伝習学校を置き、造船技師と職工を育てた。のちの海軍機関学校につながり、船の設計図を書ける機関将校を輩出している。

  • 四、近代的な働き方が定着したこと フランス人技師の労働慣行に合わせて働くうちに、定時労働・日曜休日・月給・年功給・技能給・複式簿記が根づいた。現代の会社員の働き方の原型が、ここから広まっている。

建設地が横須賀に決まるまで

佐賀藩が幕府に献納していたオランダ製の製鉄・造船機械一式がありました。小栗はこれを活かせないかと考え、盟友の栗本鋤雲とともにフランス公使ロッシュに相談します。フランス側の技師が点検したところ、機械は小規模で本格的なドックには足りない。そこでまず横浜(石川町)の湿地を埋め立てて横浜製鉄所を建て、そこで日本人が技術を覚えることにしました。

そのうえで小栗はより大規模な造船所の建設を提案し、元治元年(1864)十一月十日、幕閣がこれを決定します。同月二十六日に江戸湾を視察・測量した結果、当初の候補地であった長浦湾から、隣の横須賀湾に変更されました。当時の横須賀村は戸数二十二戸の小さな漁村です。

湾口が北を向いて波が穏やかであること、入江の形がよいこと、水深が約二十メートルあること、ドック建造に適した粘土質の岩盤であること。フランス人技師たちは、母国のツーロン港によく似た地形だと推しました。

「土蔵付き売据」の言葉

建設には反対が渦巻きました。日本にできるはずがない、時期尚早だ、フランスに委託するのは危うい、江戸から遠い、資金がない――。ある幕臣が「費用をかけて造っても、出来上がるころ幕府はどうなっているかわからない」と言ったとき、小栗は居ずまいを正してこう答えたと記録されています。

幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命には限りがない。幕府のしたことが長く日本のためとなって、徳川のした仕事が成功したのだと後に言われれば、徳川家の名誉ではないか。国の利益ではないか。

『同方会報告』明治二十九年 第一号

家具を残したまま売る「売据(うりすえ)」にたとえて、「同じ売据にしても、土蔵付き売据のほうがよい。あとは野となれ山となれと言って退散するのはよろしくない」と語りました。政権は遠からず新しい家主に渡るだろう、それなら蔵付きの家にして渡そう、という意味です。大仰な物言いを避けた、江戸っ子の洒落でもありました。

建設が決まると、小栗は就いたばかりの軍艦奉行を辞任します。自ら退くことで反対派の機先を制したとみられます。ただし製鉄所建設委員には名を連ね、実質的な推進役を務め続けました。技師長には、エコール・ポリテクニックを出たフランス海軍の技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーが招かれます。

富岡製糸場へ

横須賀の技術は各地に広がりました。世界遺産となった富岡製糸場の木骨レンガの建物群は、横須賀造船所を建てていたフランス人建築技師たちが「五十日で」という条件で設計したものです。技師バスティアンが富岡へ派遣され、横須賀の日本人大工十数名も同行しました。図面はフランス語、寸法はメートル法です。富岡でも横須賀と同じく定時労働・日曜休日・月給・年功給・技能給が始まっています。

もっと詳しく

横須賀製鉄所については、構想が生まれた経緯から、幕末の建設当時のエピソード、明治以後の歩みと後世への影響まで、次の記事でさらに詳しく紹介しています。

  1. ワシントン海軍工廠を見た男

    万延元年の遣米使節でワシントン海軍工廠を見学した経験が、横須賀構想の原点になったといわれます。

  2. 横浜製鉄所 ― 横須賀より先にできた工場

    大きな工場の前にまず小さな工場を。技術者を育て、機材をそろえるために建てられた準備の工場です。

  3. 佐賀藩の眠っていた機械

    鍋島閑叟が幕府に献納したオランダ製の造船機械。幕府は相州貉ヶ谷での据付に失敗し、機械は眠ったままになっていました。

  4. 栗本鋤雲との友情、翔鶴修理の逸話

    元治元年、路上での立ち話から国産ドック構想が具体化したと伝わる、盟友・栗本鋤雲とのエピソード。

  5. なぜフランスを選んだか

    イギリス・アメリカ・オランダとの比較の中で、フランスとの提携が選ばれた背景を紹介します。

  6. 「ドックの名も知らぬ」栗本の驚き

    「ドック」という言葉すら知らなかった栗本鋤雲が、小栗の説明に驚いたと伝わる会話劇です。

  7. 不潔な軍艦を掃除させた奇策

    外国艦長の視察を口実に、幕府軍艦の掃除と規律を正させたという小栗の機知のエピソード。

  8. フランス語学所の開校

    慶応元年、横浜に開かれたフランス語学所。小栗の養嗣子・又一らが学びました。

  9. 造船技術者を育てた企業内教育制度

    慶応二年の着工後に設けられた技術伝習学校。のちの海軍機関学校につながる教育制度でした。

  10. 明治天皇の行幸と勅語

    明治四年、明治天皇が横須賀造船所に行幸し、日本海軍史上初とされる勅語を下賜しました。

  11. 国産初の軍艦「清輝」進水

    明治八年に進水した軍艦「清輝」。横須賀造船所で建造された記念すべき第一号艦です。

  12. 日本海海戦とのつながり、対馬の因縁

    対馬事件から四十年余りを経て、同じ対馬海峡で日本海軍がバルチック艦隊を破った巡り合わせを紹介します。

  13. 東郷平八郎が贈った言葉

    日本海海戦の司令長官・東郷平八郎が、横須賀と小栗の顕彰に際して贈ったと伝わる感謝の言葉。

  14. 銅像は最初ウェルニーだけの予定だった

    大正四年、諏訪公園に建てられた小栗とヴェルニーの胸像。建立の順番をめぐる逸話を紹介します。

  15. 富岡製糸場への技術伝播

    横須賀の技師と大工が富岡製糸場の建設に携わった経緯を、より詳しく紹介します。