JISEKI

ワシントン海軍工廠を見た男

万延元年、目付として渡米した小栗が見たものは、艦船そのものより工廠の仕組みそのものでした。

横須賀製鉄所の原点をたどると、慶応元年よりずっと前、万延元年(1860)の遣米使節にさかのぼります。目付(監察)として渡米した小栗忠順が首都ワシントンで見たもののうち、のちの人生をもっとも大きく動かしたのが、合衆国海軍のワシントン海軍工廠でした。

一行がワシントンに入ったのは万延元年三月二十五日。副使・村垣淡路守の『航海日記』は、正午に「街のはづれなるネビヤールト(海軍工廠なり)」へ着船した、と記しています。岸には男女が群集し、「家のうち外屋根までも登りて見物す」というありさまでした。出迎えたのはコモドール・ブカナン。村垣は「これもペルリ渡来の時、船将にて来りし人なり」と書き添えています。七年前に浦賀へ来た艦隊の士官が、ここで日本の使節を迎えたわけです。三月二十八日に大統領ブカナンへ国書を捧呈し、四月三日に条約批准書の交換を済ませました。

ジョンストン中尉が書き残した視察の一日

工廠の本格的な見学は、その数日後です。随行したアメリカ海軍のジョンストン中尉の日記が、その日の様子を細かく伝えています。

一行は二人の海軍委員に伴われて工廠を訪れ、キャプテン・ブカナンの歓迎の辞に正使が答えたのち、構内を一巡して各部の作業を視察しました。機械部では、軍艦ペンサコラに据え付けるために製造中だった大規模な機関を見て、しきりに感嘆の声をあげています。大砲部では、雷管の製造と填充作業、ミニー小銃用の弾丸製造、真鍮の榴弾砲の鋳造と仕上げを順に見ました。ジョンストンは、日本人たちが「亜米利加人の技術の優れて居る事や仕事の大規模なること」を賞讃し、「且つ喜び且つ驚いた」と書いています。

このあと、使節一行を正面に据え、工廠の士官たちが随員や新聞記者とともに後方に並んで、記念の写真が撮られました。

遣米使節一行が視察した海軍工廠での記念写真
視察先の海軍工廠で撮影された使節一行の記念写真。出典:田中一貞編『万延元年遣米使節図録』1920年、国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/1920856)

撮影が終わると、アメリカ側は精巧なダールグレン砲と榴弾砲を実際に撃ってみせました。ジョンストンによれば、日本人たちは驚嘆の目を見張り、弾丸が河の水面を掠めて飛ぶのを見守る様子は、いかにも満足げに見えたといいます。

阿部道山氏は、この視察について「村垣の日記と米人の見た一行の工廠視察日記とには自からひらきがある」と指摘したうえで、小栗はこの視察において深く決するところがあったと書いています。

なぜ工廠だったのか

当時の日本には、これに比べうる総合的な工場が存在しませんでした。幕府は遅ればせながら長崎に海軍伝習所を設け、阿部老中の発意で永井玄蕃頭がその任にあたり、オランダから三艘の船を譲り受けて航海術・戦術の伝習を始めてはいました。しかし艦を自分の手で造り、直す技術まではまだ届いていなかったのです。艦があっても修理できなければ、いざというとき海軍は動きがとれない――工廠を歩いた小栗が見て取ったのは、そこでした。

帰路の船上でアメリカ大陸が遠ざかっていく夕刻、小栗がひとり衆を離れて舷側に立っていた場面を、村垣淡路守の曾孫にあたる服部逸郎氏が書き残しています(坂本藤良氏の引用)。そこで小栗はこう独語したことになっています。

「ことに窮理(科学)の進歩にいたっては実に羨ましいことだ。あの造船所の機械、また造幣局の設備など、これはどうしてもわが国に取り入れねばならぬ。そうして世界の各国と対抗できるだけの実力を養うのだ。そうだ、自分がやろう」

後世の筆による再現ですから、そのまま記録として読むことはできません。ただ、この航海で小栗が見たものは、ワシントンの工廠だけではありませんでした。帰途、ジャワのオンリュスト島ではオランダの造船所を視察し(バタビア出航は十月十日)、イギリス植民地の惨状も自分の目で見ています。坂本藤良氏はこれを、「アメリカの最新鋭艦で世界一周し、各国の海軍工廠をまのあたりに見」た経験だとまとめています。

四年後に動き出す

帰国後の小栗は、勘定奉行・軍艦奉行として幕政の中枢に戻りますが、造船所の構想がすぐ計画になったわけではありません。動き出したのは元治元年(1864)十二月、横浜の街角で栗本瀬兵衛(鋤雲)を呼び止め、佐賀藩献納の機械をどう使うかを立ち話にした、あの日からです。栗本は「ドックの名さえ初めて聞いたほど」だったと手記に書いていますが、小栗の側には四年前に歩いた工廠の記憶がありました。

元治元年十一月十日、老中・水野和泉守、阿部豊後守、諏訪因幡守の名で「船廠」「工廠」二工場の建設が決定されます。まず佐賀藩献納の機械類を横浜に集め、横浜小製鉄所の建設が始まりました。これが「工廠」です。阿部道山氏は、横須賀海軍工廠を「七十余年前の若き小栗の血を湧した思出深きこの渡米から得た副産物」と呼んでいます。

典拠:阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年(村垣淡路守『航海日記』およびジョンストン日記の引用を含む)/坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年

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