横須賀製鉄所の計画が動き出した瞬間として伝わっているのは、元治元年(1864)十二月中旬、横浜の街角で小栗忠順と栗本瀬兵衛(のちの鋤雲)が交わした立ち話です。きっかけは一隻の軍艦の修理でした。
軍艦「翔鶴丸」の破損
翔鶴丸はアメリカで建造され、文久三年十一月に横浜へ入港した幕府の所有艦ですが、ほどなく動かなくなってしまいます。本来は軍艦奉行・勝海舟の責任でしたが、勝はそのころ兵庫に神戸海軍操練所をつくって全国から浪人を集めており、老中たちから見れば何をしているのか分からない。勝に任せれば費用がかさみ、修理も自己流に過ぎる――そう見られていた可能性が大きいといわれます。
たまたまフランスの軍艦が横浜に寄港しており、技師も乗り組んでいました。老中は栗本を呼び、「フランス人技師が修理できるかどうか、ロッシュ公使に打診してみてくれ」と命じます。栗本が頼むと、ロッシュはそういう機会を待っていたかのように快く引き受けました。
六十日あまりで修理は完了します。仕上がりを見て栗本自身が驚いたほど、完璧な出来でした。技師の名はドロートル(トロートル)。のちに横浜製鉄所の所長を務めることになる人物です。
この修理が持った意味は、一隻の艦にとどまりません。翔鶴丸修理の一年ほど前の文久三年七月、イギリス軍艦七隻が鹿児島を砲撃し、薩摩はイギリスへ接近しはじめていました。修理開始の二か月前、元治元年八月には英米仏蘭の四国連合艦隊が下関を砲撃し、長州もまたイギリスとの関係を深めます。イギリスは武力で薩長を引き寄せ、フランスは幕府軍艦の修理で幕府の信頼を得た。薩長と幕府が大きく方向を分かっていくのは、翔鶴丸修理の前後数か月のことでした。
横浜の街角で
修理が終わった直後のことです。空は晴れているが風の強い日、栗本が翔鶴丸から税関を通って本牧の役宅へ帰る途中、後ろから砂塵を蹴立てて騎馬が二騎駆けてきました。栗本が横町に入ろうとすると、大声で呼ぶ声がします。
「瀬兵衛殿、瀬兵衛殿、うまくやられたな。感服、感服!」
振り返ると、小栗とその家来でした。小栗は馬を下り、手綱を家来に渡して近づいてきます。何の話です、と問う栗本に、翔鶴丸の修理です、と小栗。
この日、小栗は英国のオリエンタル・バンクに掛け合いがあって横浜へ来ていました。下役でも済む用件でしたが「埒があかんのを恐れて、自分で来ました」という。用が早く済んだので栗本に会おうと翔鶴丸へ行ったが本人は不在で、船底まで入って自分で検分してきたというのです。「見事に出来ましたなあ。感服いたした。しかし、それにしてもパイプ(鉄管)がよく間に合いましたな」。
栗本の答えがまた、この二人らしい。フランス軍艦の持つパイプは大きすぎた。上海にあると聞いて便船があったのですぐ注文して取り寄せた。本来なら海外への注文には小栗の役所の許しが要るが、「やれ評議の、やれ何のとひまどっては間に合いませんので、請負普請の仕上勘定と覚悟をきめ、無断ではからいました。ご了承下さい」――。
これに対する小栗の返事は、ひとこと「妙々」。手続き無視など何とも思っていない気性が、そのまま出ています。この会話のあと、小栗が「さも無造作に」切り出したのが、佐賀藩から幕府に献納されたまま錆びるにまかせている蒸気動力の製鉄・造船機械の話でした。横須賀製鉄所の構想は、ここから始まります。
医官から幕臣へ
栗本鋤雲は、幕府の御殿医・喜多村槐園の三男として、文政五年(1822)三月、江戸は神田小川町の裏猿楽町に生まれました。神田駿河台の小栗家とは目と鼻の先です。忠順より五歳年上で、二人は少年時代、小栗屋敷の長屋にあった安積艮斎の塾で机を並べています。
その後は昌平黌に進み、天保十四年、二十二歳で幕吏登用試験である校試甲科に合格、白銀十五錠を賞与されました。同期に岩瀬忠震がいます。ところが同じ年に昌平黌の規則に触れて退学となり、その後、奥詰の医者を務めていたときに幕府の軍艦・観光丸へひそかに試乗したことが上司の怒りに触れ、江戸を追われて蝦夷地勤務に回されてしまいます。
この左遷が、のちに効きました。栗本は箱館で六年を過ごし、薬草園などをつくりながら、ジェズイット派のフランス人神父カションと出会います。栗本は彼に日本語を教え、フランス語を学びました。足かけ四年の交流ののちカションは本国へ呼び戻されますが、箱館奉行組頭を経て江戸に召還され、昌平黌取締役から目付へ昇進して外国掛となった栗本が、開国条約破棄の交渉という無理な用向きで横浜へ派遣されたとき、新任のフランス公使レオン・ロッシュのかたわらに通訳官として立っていたのが、そのカションでした。二人は手を取って奇遇を喜び合ったといいます。
翔鶴丸の修理をロッシュに頼めたのも、フランスとの交渉が動いたのも、この人脈があってのことでした。元治元年十一月十日、幕府は小栗と目付・栗本瀬兵衛に命じ、ロッシュに製鉄所起立の方案を諮問させます。『海軍歴史』は「元治元甲子年、勘定奉行小栗上野介及監察栗本瀬兵衛をして仏国公使レオンロセスに製鉄所起立方案を諮詢せしむ」と記しています。
もっとも、栗本は終始小栗と同意見だったわけではありません。造船廠建設に対する幕閣の反対が強まったとき、計画の片腕であった栗本ですら、思い止まるよう小栗に諫言したと伝わります。それでも二人の友情は変わらず、明治になって栗本は頑として新政府に仕えず、『郵便報知新聞』の記者となりました。いま、忠順最期の地である上州権田の東善寺には、二人の胸像が並んで建っています。
典拠:坂本藤良『「兵庫商社」を創った最後の幕臣 小栗上野介の生涯』講談社、1987年/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年