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栗本鋤雲 ― 蝦夷から幕閣、生涯の友

蝦夷地の実務から幕閣に転じ、横須賀製鉄所の建設を小栗とともに支えた盟友。維新後は言論の世界に生きました。

栗本鋤雲(くりもと じょうん)は、幕末の幕臣の中でも異色の経歴を持つ人物です。文政五年(一八二二年)三月、江戸神田小川町の裏猿楽町に、幕府御殿医・喜多村槐園の三番目の子として生まれました。小栗家のある神田駿河台からもほど近い一角です。名は鯤、号を匏庵(ほうあん)。はじめ哲三、のち喜多村瑞見と称し、栗本家を継いで瀬兵衛、さらに安芸守と改めました。「鋤雲」は維新後に官を辞してからの通称です。

子供のころから喀血を患い、家族は無理に勉学をすすめなかったといいます。天保九年(一八三八年)、一七歳で喀血がおさまると、安積艮斎の塾に学び、のち昌平黌に入りました。天保一四年(一八四三年)、二二歳で幕吏登用試験にあたる校試甲科に合格、幕府から白銀一五錠を賞されました。同期に岩瀬忠震がいます。身体が大きく容貌も堂々としていたため、人びとは彼を「お化け喜多村」と呼んだと伝わります。

艮斎の塾で出会った五歳下の少年

小栗忠順が安積艮斎の塾に通いはじめたのは、天保五年(一八三四年)、満六歳のときからだといいます。忠順はこの塾で、五歳年上の栗本瀬兵衛と知りあいました。坂本藤良氏は、栗本を「容貌は魁偉だが、曲がったことが嫌いで、心のやさしい秀才」と評し、二人の友情はこのときに芽生え、生涯を通じて変わらなかったと記しています。

ただし栗本の前半生は順調ではありません。校試甲科に合格した同じ年、昌平黌の規則に触れて退学となり、開明派の外務官僚への道は閉ざされました。さらに幕府の軍艦・観光丸にひそかに試乗したことが上司の怒りにふれ、免官のうえ江戸を追われて蝦夷地勤務に回されます。箱館では六年を過ごし、薬草園などをつくりました。

この左遷が、のちに大きな意味を持ちます。箱館で栗本は、ジェズイット派のフランス人神父メルメ・デ・カションと出会い、日本語を教える代わりにフランス語を学んだのです。足かけ四年の交流ののち、カションはフランスに呼びもどされました。栗本はまもなく箱館奉行組頭に任じられ、江戸に召還されて昌平黌取締役から目付へ進み、外国掛を命じられます。元治元年六月晦日に目付任官、時に四三歳で、竹本淡路守とともに鎖港談判を委任されました。

その横浜で、栗本は思いがけない再会をします。新任のフランス公使レオン・ロッシュのかたわらに、旧知のカションが通訳官として立っていたのです。

翔鶴丸の修理と、横浜の街角

そのころ幕府の所有艦・翔鶴丸が破損しました。老中は栗本を呼び、フランス人技師に修理ができるかロッシュに打診せよと命じます。ロッシュは快く引き受け、六〇日あまりで修理は完了。仕上がりを見て、栗本自身が驚くほど完璧な出来でした。

元治元年(一八六四年)十二月中旬、空は晴れているが風の強い日のことです。栗本が翔鶴丸から税関を通り、本牧の役宅に帰る途中、後ろから砂塵を蹴立てて馬二騎が駆けてきました。横町に入ろうとした栗本を、大声が呼び止めます。

「瀬兵衛殿、瀬兵衛殿、うまくやられたな。感服、感服!」

小栗上野介とその家来でした。小栗はその日、英国のオリエンタル・バンクへ掛合いに出向いていました。下役でも済む用向きを、「埒があかんのを恐れて」自分で出かけたのだといいます。用が済むと翔鶴丸まで足を運び、栗本がもう居ないと知ると、船底まで入って検分したというのです。

鉄管がよく間に合ったものだ、と小栗は言いました。栗本は、フランス軍艦の持つ管は大きすぎて使えず、上海にあると聞いて便船で取り寄せたと答えます。海外への注文には小栗の役所の許可が要るが、評議を待っていては間に合わないので、請負普請の仕上勘定と覚悟を決めて無断ではからった、と。小栗は「妙々」とほめました。海音寺潮五郎氏は、この会話に「手続無視などなんとも思っていない気性」がうかがわれると解説しています。

この立ち話の続きが、小栗生涯の大事業のはじまりでした。佐賀藩が幕府に献納した蒸気動力の製鉄・造船機械を役立てたい、翔鶴丸を直したフランス人技師にもうひと骨おってもらえまいか、と小栗は「さも無造作に」話し出します。栗本の手記によれば、彼は「ドックの名さえ初めて聞いたほどで、まして製鉄所などはまったく知らなかった」。それでも栗本は、今夜にでも公使館へ行ってはどうかと応じ、二人はその夜のうちに神奈川に宿を取り、連れだってロッシュを訪ねました。

横須賀製鉄所と「土蔵付きの売家」

慶応元年、横須賀製鉄所の取建を命じられた幕臣は八名。小栗のほか、栗本安芸守、木下謹吾、浅野伊賀守、山口駿河守、柴田日向守らが名を連ねました。製鉄所一か所、大小のドック二か所、造船所三か所を四か年で竣工させる計画で、経費は年額六〇万ドル。条約書面の口訳筆記にあたったのは、栗本の箱館時代の学友メルメ・デ・カションでした。

もっともこの計画は幕府内で激しく反対されました。国政多難のときに悠長な大事業で国帑を費やすのは危険だ、というのです。小栗の片腕であった栗本ですら、一度は思いとどまるよう諫言しています。そのとき小栗が返したのが、あの有名な言葉でした。

「たとえ徳川氏がその幕府に熨斗をつけて他人に贈るまでも、土蔵付きの売家たるはまた快からずや」(『匏菴遺稿』)

栗本は後年、この言葉を回顧して「無限の憐れむべきもの」があると記しました。幕府の台所の実情は、同じ栗本の遺稿『下ノ関償金の顛末』からも分かります。元治元年の暮、下関償金の第一回分五〇万ドルを小栗の手から渡さねばならないとき、幕府の金庫には文久銭で二四万しかなかったというのです。

幕府の最末期、小栗は栗本を抜擢して外国奉行とし、フランスへ派遣しました。大政奉還のとき、栗本は遠くフランスに滞在しています。帰朝したのは、小栗が権田村で斬首された、その翌月のことでした。

維新後、言論の世界へ

維新後、栗本は官途に就くことを頑として拒み、『郵便報知新聞』の記者として筆を執りました。横須賀製鉄所建設の経緯を書き残した「横須賀経営の事」も、この報知新聞時代、明治六、七年ごろの筆と推されています。惜しむらくは、建設当時の文書そのものは、手元に留め置けば何の厄を引き出すか分からないと「思い誤りて」悉く火中に投じた、と栗本自身が書いています。

報知新聞の後輩には、犬養毅・原敬・尾崎行雄がいました。犬養は栗本を生涯〈先生〉と呼び、自らを〈門人〉と称して、明治二五年三月に「栗本鋤雲先生伝略」を書いています。尾崎の号「咢堂」は栗本がつけたものだと伝わります。栗本鋤雲は明治三〇年、東京本所の自邸で世を去り、嗣子・秀次郎の手で随筆集『匏菴遺稿』が刊行されました。

昭和の横須賀海軍工廠では、大食堂に鋤雲の肖像が高く掲げられていました。そして上州権田の東善寺には、朝倉文夫作の小栗上野介の胸像と、その盟友・栗本鋤雲の像とが相対して建っています。安積艮斎の塾で出会った二人は、いまも同じ境内に並んでいるのです。

典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年(『匏菴遺稿』引用を含む)/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年

→ 栗本鋤雲との友情、翔鶴修理の逸話

→ 横須賀のドック建造

→ 安積艮斎の塾