横須賀製鉄所の構想には、佐賀藩から幕府に献納された蒸気修船器械一式が深く関わっています。日本海軍の創始は佐賀藩から、といわれるほど、藩主・鍋島直正(閑叟)は洋式技術の導入に早くから力を入れていました。長崎という対外の窓を持ち、軍艦も兵器も、反射炉も科学の研究施設も備えていた藩です。
十二万両の買い物が、藩の手に余った
その鍋島直正が、文久年間におよそ十二万両を投じて、オランダから造船設備一式を買い付けました。ところが現物が到着し、いざ据え付ける段になって、それだけで数万両かかることが判明します。藩の財政と睨み合わせてこれ以上は無理だと知恵を絞った末に思いついたのが、将軍への献上でした。
佐賀の名士で、のちに伯爵となった佐野常民の遺談によれば、はじめの話は金三万両ほどのはずが、到着してみると銀十二万五千両と請求され、そのうえ据え付けに莫大な経費がかかるとわかって、驚いて始末に困った、というのです。
機械の中身については、鍋島家に出入りしていた青木休七郎の遺談が残っています。
所がそれには彼の、トロラヘロップと唱えます船を揚げる機械も、その中に加へて居りました。又大砲なども持へて、中を穿つ機械杯も、ずっと揃って居りましてございます。それを残らず鍋島家の製鉄所に荷揚げを致して見ました所が、中々容易ならぬ費用がかかる処から、そうした議が立ちましたが、遂に幕府へこれを差上げることにお談しがありました
船を陸に揚げる装置から、大砲の砲身に穴をあける中ぐり盤まで揃った、純然たる軍港・造船所の一式だったわけです。
献納が成ったのは元治元年(1864)六月のことでした。鍋島家の記録は、同年六月二十三日、製鉄機械一式と大砲の献納に対し、「方今御必要の御品にて、早速御用にも相立、御満足被思召候」として刀と時服三十を下賜されたこと、そして未納分の代金については七十年賦での返納という異例の沙汰が下されたことを伝えています。つまり佐賀藩は手金の一部を払っただけで、大部分は幕府に肩代わりしてもらう形になったのです。
相州貉ヶ谷での頓挫
ところが、受け取った幕府もこれを持て余します。機械の三分の二は横浜の石炭庫に、残る三分の一は長崎港に置かれたまま。前年には相州貉ヶ谷湾でこの機械を使ってドックと製鉄所を建てようと、担当の役員まで決めて測量も済ませたのですが、「矢張り其業に馴れし人無きを以て」中止になっていました。機械はあっても、それを据えて動かせる人間がいない――問題はそこにありました。
この眠っていた機械に目をつけたのが小栗です。元治元年十二月(『小栗上野介』の著者は十一月の誤りではないかと疑っています)、風の烈しく吹く晴れた日、退庁して帰途についた栗本瀬兵衛(鋤雲)の背後から二騎が砂塵を蹴立てて駆けてきました。「瀬兵衛殿、旨く遣られしな、感服感服」――振り返れば小栗上野介とその従者でした。翔鶴丸の修理をうまくやってのけた栗本をねぎらう言葉から話は始まり、やがて小栗はこともなげに切り出します。佐賀献納の機械を貉ヶ谷に運んで、翔鶴丸を直したフランス人技師ドロートルにひと骨折ってもらってはどうか、と。
これに対する栗本の反応に、この時代の技術水準があらわれています。栗本自身が書き残しているところによれば、彼は「予ドックの名さへ始めて聞きたる程なれば、況や製鉄所などは如何なる物なるやも知らず」という有様でした。洋学に通じた幕臣の代表格ですら、ドックという言葉をこのとき初めて聞いたのです。
フランス人技師の検分が告げたこと
二人はその日の夕方、そろってフランス公使館を訪ねます。公使レオン・ロッシュも技術には暗く、ドロートルが適任かどうか判断できないため、水師提督ジョーライスに報せが飛びました。提督の答えは、ドロートルは年若く学もまだその域に達していないので新造の業は覚束ない、「セミラミス」艦の一等蒸気士官ジンソライが上海から帰り次第、機械を点検させて確答する、というものでした。
そのジンソライが上海から来て機械を検分した結果は、期待を裏切るものでした。公使を通じての申し出は、この機械は「総体小振にて従て馬力も強からざれば、鉄具小修理を弁するに足る迄の用」であって、ドックを造って大仕事をこなせるものではない、今ある機械は横浜近傍に据え付けて小修復に備えるのがもっとも役に立つ、というものでした。
この検分結果を受けて、小栗と栗本の判断はむしろ大きく振れます。軍艦を持つ以上、破損は起きて当たり前。修復の場がなければ、一度壊れればたちまち使い物にならない。壊れるたびに外国へ回航していては往復の費用だけで格外の出費になる。ならば断然、腕のある技師を迎え、近くの港に適地を選んで本格的に建てるべきだ――こうして、機械の不足から出発した話が、横須賀での大造船所建設へと転じていきました。委託先については、諸外国はいずれも師ではあるが他国はこちらの不馴れにつけ込んで利を貪るばかりで、フランスのみは比較的信ずるに足る、という判断でフランスが選ばれています。
元治元年十一月十日、幕閣は小栗の主張を容れ、老中・水野和泉守、阿部豊後守、諏訪因幡守の名で「船廠」「工廠」の二工場建設を決定しました。まず佐賀藩献納の機械類が横浜に集結させられ、横浜製鉄所の建設が始まります。元治二年(慶応元年=1865)正月に上海から来日したヴェルニーは、その翌月にはもう着工し、ジンソライに機械類を全部点検させました。錆びたものは磨きたてて使ったといいます。日本人の技術者や職工が洋式の機械に初めて触れ、扱い方を覚えたのは、この現場でした。
後日談があります。明治元年四月一日、新政府が旧幕府から横須賀製鉄所を受け取ったとき、立ち会ったのは侍従・鍋島直大――閑叟こと直正の嫡男でした。藩の手に余って幕府に譲られた機械から始まった事業を、その息子が新政府の側で引き継ぎました。
典拠:栗本鋤雲『匏庵遺稿』(阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年 所収)/大坪指方・穂積驚『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会、昭和五十年/坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年