NENPU

ワシントンでの大統領謁見

五月十七日、ホワイトハウスでブキャナン大統領に国書を奉呈。五月二十二日には批准書交換が行われました。

パナマ地峡を鉄道で越え、大西洋岸のアスピンオールで軍艦ローノック号に乗り換えた使節団は、万延元年(1860)五月十四日、いよいよワシントンに到着しました。品川を出てから四か月近く、ここが今回の渡米の目的地です。

上陸地点は街はずれの海軍工廠でした。副使・村垣淡路守の『航海日記』は、その日の騒ぎを書き留めています。

陸には男女群集して家のうち外屋根までも登りて見物す、やがてをのれ等にジュポント始め各誘引て陸にあがればコモドール、ブカナン出迎、これもペルリ渡來の時、船將にて來りし人なり。……そが中に新聞紙屋とて、そこら馳步行、何か書きしるすさまなり

出迎えたブカナンは、ペリーが日本へ来たときに船将として同行していた人物です。向かいの二階には「写真鏡」が据えられ、上陸の様子が撮影されました。現在伝わる渡米中の小栗の写真は、このときの記念撮影です。一行の宿舎はウイラード・ホテルでした。

到着後まもなく国務省を訪ねた小栗は、二つのことに驚いています。公式の会見に婦人が同席すること、そして外国の使節に茶の一杯も出さないこと。礼を知らない国だ、というのがこのときの評でした。

閏三月二十八日、ホワイトハウスへ

謁見は閏三月二十八日(西暦五月十七日)と定まりました。一行は装束を整えます。正使・新見豊前守正興は狩衣に鞘巻太刀、村垣も狩衣に毛抜太刀、そして小栗忠順は鞘巻太刀、烏帽子は萌黄の組掛、糸鞋という出で立ちでした。森田行と成瀬正典は布衣、調役・徒目付は素袍、通詞・名村五八郎は麻の上下。三使節にはそれぞれアメリカ側の付添いがつき、小栗にはレッチャールトが付きました。

宿舎を出た行列の順は、鼠色の羅紗の筒袖を着た者が二十人ばかり、楽人三十人、騎兵五十六騎、そして赤い革覆いを掛けた枠に載せた御国書の長持。そのあとに新見、村垣、小栗と続きました。沿道は見物の車と徒歩の男女で埋まります。村垣は日記にこう書きました。

をのれは狩衣を着せしまま、海外には見も馴れぬ服なれば彼はいとあやしみて見るさまなれど、かかる胡國に行て皇國の光をかがやかせし心地し、おろかなる身の程も忘れて誇り貌に行くもおかし

ホワイトハウスの印象は簡素なものでした。「やがて大統領居所、鐵の柵門あり、入つて、七十間ばかりも行きて堂の前に至る」。将軍の御殿を見慣れた目に、一国の元首の住まいが鉄柵の門で仕切られているだけ、というのは意外な光景だったようです。

ハーパーズ・ウィークリー紙に描かれた大統領謁見の様子
大統領公式謁見の様子を伝えるハーパーズ・ウィークリー紙の挿絵。出典:国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/1920856)

「又出よ」――退場しかけた一行

謁見の間は、奥行き五、六間、横十二、三間ほど。正面に大統領ジェームズ・ブキャナンが立ち、左右に文武の官人が居並び、後方には着飾った婦人が大勢詰めかけていました。新見が将軍の言葉を高らかに述べ、名村五八郎が通訳します。成瀬正典が国書を持ち出し、新見がそれを大統領へ手渡し、箱は国務長官カスへ渡されました。

ここで一幕あります。国書を渡せば用は済んだと心得た一行が、さっさと控室へ退去してしまったのです。あわてて付添いのジュポントが来て、「日本の礼はこれで済んだのか」と尋ねます。済んだと答えると、「もう一度出よ」。戻ってみると、大統領は手を取ってこう述べました。日本が鎖国以来はじめて和親を結び、その第一に合衆国へ使節を立てられたこと、大統領はもちろん国中の人民が喜び限りないこと――。その口述を記した横文字の書面を手渡したのです。

批准書の交換と、「使節兼全権」の署名

五日後の四月三日(西暦五月二十二日)、日米修好通商条約の批准書交換が行われました。安政五年(1858)六月十九日に江戸で取り決められた条約を、両国が正式に発効させる手続きです。

日米修好通商条約の批准書交換証書
批准條約交換證書。「小栗豊後守」の署名が残る。出典:国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/1920856)
国務長官ルイス・カスとの会見の様子
国務長官カツス氏との会見。出典:国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/1920856)

この証書の文面に、小栗の立場があらわれています。そこには「日本大君の使節兼全権 新見豊前守 村垣淡路守 小栗豊後守」と記され、三名が署名・調印しました。証書は和文と英文で作られ、訳文は蘭文で四通が用意されています。小栗は「監察(目付)」として派遣された随員にすぎない、という見方が長く行われてきましたが、阿部道山氏はこの証書を挙げて、小栗が正式の全権の一人であったことを指摘しています。阿部氏は、新見は風貌がよいので、村垣は文筆が達者なので選ばれたと伝えられるのに対し、小栗は「頭あり、腹あり、明達の士」として選ばれたのだと書きました。

大統領の饗宴と、袖を引いた小栗

四月六日には、大統領主催の大饗宴が開かれます。席次は、正面の大統領と向かい合って姪のエレン、その右に新見、左に村垣。そして大統領の左が小栗でした。総勢三十人ほどが食卓につき、それぞれのかたわらに婦人が座るという、日本側の常識にはない配置です。

村垣は、作法がわからないので隣の婦人が食べるのを見て真似をした、と正直に書いています。エレンから「女は日本とアメリカとどちらが優れているか」と問われ、「アメリカの方が色白くてよい」と答えたら大いに喜んだ、という一幕も記録されました。

この夜、日本史上よく知られた場面が起こります。皿が十四、五度も取り替えられ、酒も済んだころ、硝子の大きな椀に水を入れ、白布を添えたものが出されました。フィンガーボウルです。村垣はエレンが手を洗い口元を拭くのを見て真似をしましたが、森田は手早く取って飲もうとしてしまう。そのとき、かたわらにいた小栗が袖を引きました。気づいた森田は、そのまま手を洗います。村垣は「貌見合ふて笑をこらゆるもくるし」と書き留めました。

贈り物の品々も飾られ、使い方を尋ねられています。とくに珍重されたのが翠簾と屏風で、何で作ったのかと問われて竹と答えると、「バンブー!」と感嘆されました。日本側の記録は、竹はアメリカにも西洋にもないものらしい、と付け加えています。

もっとも、小栗にとってワシントンでの仕事はこれだけでは終わりません。批准書交換と並行して、通貨をめぐるもうひとつの重い交渉が進められていました。

典拠:阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年(村垣淡路守『航海日記』を引く)/坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/『倉渕村誌』

→ 幣制交渉、フィラデルフィア造幣局の天秤ばかり事件

→ ニューヨークでの歓迎