ワシントンでの国書奉呈、フィラデルフィアでの貨幣分析実験を終えた使節団がニューヨークに着いたとき、アメリカ人の感動は爆発しました。出動した兵士は正式な記録で六四四〇人。「英国女王の訪米も遠くおよばぬ大歓迎であった」と坂本藤良氏は書いています。
桟敷の観覧料が一ドルまで上がった
使節たちが着く日、ブロードウェーの舗道には桟敷が組まれました。見物人が増えるにつれて観覧料を取るようになり、はじめ一人二十五セントだったものが五十セント、七十五セントと値上がりし、ついに一ドルが相場になりました。
人びとが手にしていたのは、星条旗と、もう一つの旗です。矩形のなかに赤い丸――日章旗でした。嘉永七年七月に幕府はこれを日本国すべての「船印」と定めていましたが、国を代表する旗として正式に定められたのは、この使節団派遣の直前のことです。日本人の大多数はまだこの旗を知りませんでした。日の丸は、日本よりも先に、地球の裏側で一般大衆の目にふれたのです。数十万のアメリカ人がそれを見、それを振りました。
ビルには、思い思いの歓迎幕がかけられました。「歓迎 日本使節 歓迎」「自由、平等、そして友愛」「一八六〇年、平和、進歩、繁栄」「日本、そして米国、友好の国」「一つの血、すべての国」。窓という窓に小さな日米の国旗がひらめき、広い道路を横断してビルからビルへ綱が張られ、巨大な日章旗が吊り下げられました。八〇万市民のマンハッタン島は、新鮮な期待でむせかえるようであった、と当時の新聞は記しています。
条約書の箱を載せた六頭立ての馬車
パレードの先頭は騎馬警官八人。ついで徒歩警官二十人、竜騎兵が八騎ずつ六列、第七連隊が九人ずつ四列、第八連隊工兵隊十二人、ドラム隊二十人、軍楽隊三十二人、近衛隊一個中隊と続き、そこでようやく日本使節団の馬車になります。
使節たちの馬車のあとに続いた六頭立ての馬車には、条約書の箱がきらびやかに置かれていました。随員の森田清行は『亜行日記』にこう書きとめています。
日本踊矢台の如く、四柱建て、切れ地にて包みし花やかなる台
野々村忠実の『航海目録』によれば、その上部には「彩ある天幕を張り、花を飾り」、日の丸と星条旗が立てられていました。箱そのものは日本の駕籠を小型にしたような形で、黒く光る漆塗りの枠に朱色の皮がかかっています。アメリカ人には見慣れない品でした。
行列はさらに、随員・従者の馬車二十台、ニューヨーク市議会の合同委員秘書、市議会守衛、市参事会議長、市参事会員および市会議員の馬車十三台、フィラデルフィア市会議員の馬車と、延々と続きました。警官隊は四〇〇人動員されていましたが、それでも群衆の整理は不可能に思われるほどだったといいます。
この群衆のなかに、『草の葉』の詩人ウォルト・ホイットマンがいました。彼はこの日の強烈な印象を詩にうたい、「西の海を越えて」という後世に残る作品を書いています。
深夜のセレナーデ
パレードのあとは閲兵式。一行はブロードウェーに面した六階建てのメトロポリタン・ホテルに入りました。すでに夕刻で、ひとつひとつの窓に日章旗がはためき、「白赤の行灯」がつけられて「内外白昼の如く」だったと『亜行日記』は記します。バルコニーには「Welcome Japanese Embassy」のイルミネーション。午後十一時から、バルコニーの下で一〇〇人以上の軍楽隊が演奏を始め、深夜のセレナーデが一時間ほど続いて、この日の行事は終わりました。
「トミー・ポルカ」
この熱狂の結晶が、一八六〇年にアメリカで印刷された一枚の楽譜です。表紙には、羽織袴で小刀を腰にさし、大刀を手に持って椅子に腰かけた若いサムライが描かれています。立石斧次郎。三使節の従者であり、通訳見習でした。アメリカ人は彼をトミーの愛称で呼びます。
Dedicated to TATEISH ONOGERO (or TOMMY) of the JAPANESE EMBASSY
歌い出しはこうです。街ゆく奥さんやお嬢さんが夢中で周りに寄ってくる、魅力あふれた小さな紳士、その名はトミー――。ワシントンでは、上流婦人たちにトミーが近づくと「あたりはシンと静まりかえった」といいます。ブロードウェーのパレードでは、馬車の上からアメリカ女性にもらったハンカチを振って見せ、群衆は大歓声をあげました。
『ニューヨーク・タイムズ』紙の記者には「髪をのばしてアメリカ海軍士官学校に入り、アメリカ娘を女房にしたい」と語り、意中の候補者の写真まで見せています。あまりはしゃぎ過ぎるので小栗がたしなめると、そのことが大きく新聞に出ました。「オグロがトミーにハロカル(腹切り)を命じた」――むろん誤報です。
「トミー・ポルカ」は大ヒットしました。アメリカ社交界はこの曲を演奏し、歌い、かつ踊ったのです。それは、骨肉相食む南北戦争前夜の暗さのなかでの、最後の楽しいひとときでもありました。
この楽譜は、その後百数十年にわたって「幻の楽譜」となります。曲が全米で流行した事実は、『ジャパン・タイムズ』紙の記者だった村山有氏が二十数年前に発見して歌詞を紹介し、副使・村垣淡路守の曾孫にあたる服部逸郎氏の『7人の侍アメリカへ行く』でも歌詞だけが紹介されました。村山氏も服部氏も、楽譜そのものを見ることのないまま世を去っています。
「奇妙なかっこうをした眼鏡をとおして」
アメリカの新聞は、トミーにばかり眼を注いでいたわけではありません。三使節それぞれについて、こう論評しています。正使・新見豊前守は「親しみ深い応対をしながら、つねに威厳のある沈黙を保っていた」。副使・村垣淡路守は「好人物で、いつも待機しているような姿勢を崩さなかった」。そして監察の小栗豊後守については――
第三の“の守”(オグロ・ブンゴ・ノカミ)は、奇妙なかっこうをした眼鏡をとおして、すべてのことがらを見通していた
使節団がアメリカ市民とかなり自由に交歓しながらも一定の節度を保ったのは、監察としての忠順の適切な指導によるものだった、と坂本藤良氏は見ています。なお立石斧次郎は帰国後、青年時代の益田孝に英語を教えました。益田はその語学力を三野村利左衛門に認められ、のちに三井物産の初代社長となります。
典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年