万延元年(1860)、遣米使節の一行はニューヨーク滞在の最後の日に、当時世界最大の船だった英国の汽船グレート・イースタン号を目にしました。随員たちの日記は、この船をどう見たかを競うように書き残しています。
まず、乗る船が大きかった
帰路のためにアメリカが用意したのは、当時世界最新鋭の軍艦ナイヤガラ号でした。ブキャナン大統領の姪レーンが命名した船です。小栗の従者・木村鉄太は、この船をこう書きとめています。
「『ナイアキラ』船は、螺子蒸気にして、その長さ三百八十フウト〔我六十四間半〕、深さ三十二フウト、広さ五十フウト、蒸気六千馬力。(中略)大砲十五座、忽微砲四座、煤炭一千噸を貯ふ可し。昼夜に四十噸より五十噸を焚く」
フィートを間に換算し、石炭の消費量まで数えている。日本人の目が、船を「立派だ」ではなく数字で捉えようとしていたことがよく分かる記述です。
「四海第一の大船」
ところが、そのナイヤガラ号でニューヨーク港を出ようという段になって、一行は桁の違うものを見てしまいます。木村鉄太は書いています。
「たまたま英吉利の大東船来泊せり。これ四海第一の大船にして、長さ七百五十フウト〔我百二十七間〕、六檣(帆柱六本)、両火輪(両側に外輪)、一螺糸(一スクリュー)、能く一万人を乗して一昼夜三百三十里をはしるべし」
「大東船」がグレート・イースタン号です。坂本藤良氏の注によれば、一八五七年にロンドンで竣工した長さ二二三メートル、幅二七メートルの鋼鉄船でした。帆柱六本に外輪とスクリューを併せ持つという、この時代の推進方式をすべて積み込んだような船です。
もう一人の従者・福島義言は、これを軍艦だと思いこみました。
「英国の大軍艦あり」「烟出し五つ、蒸を設ること四ヶ所、乃ち世界大船の冠たり」
無理もありません。この船は客船でありながら大砲を四六門積んでおり、軍艦としても使えるしくみになっていました。軍艦として運用する場合の乗員数は一万人とされていたのです。
加藤素毛の記述は、二隻の大きさの差をそのまま言葉にしています。
「ナイアキラは、ふつうの大船を上から見おろすほど巨大だが、この英国の新大船ギリート・イーステルは、ナイアキラからはるかに見上げるほど大きい」
さすがのナイヤガラ号も、グレート・イースタン号と並ぶと小さく見えた――というのが、その日の一行の実感でした。
港に走った噂
一万人を乗せうるという船は、日本人だけでなくニューヨーク市民の目も見張らせました。そして妙な噂が街中に広がります。「英国人は日本使節をイギリスに連れていこうと企てて、この船を派遣したのだ」――。この噂のせいで、アメリカ官憲は使節たちの警戒を強化したと伝わります。開国したばかりの日本をめぐって英米が神経を尖らせていた空気が、一隻の巨船のまわりに集まっていたわけです。
翌朝、ナイヤガラ号は静かに動き出しました。福島義言の日記は、こう始まります。
「五月十三日、晴、此日、新約基湊を発し、艦東南に走る」
世界最新鋭の軍艦に乗り、世界一の巨船を見上げて、使節団はアメリカを離れました。四年半のち、小栗が横須賀に造ろうとしたのは、こういう鉄の船を日本の手で造り、直せる場所でした。
なお、この出港の直前、もう一つの騒ぎがありました。サンフランシスコを発つ咸臨丸がポニー・エクスプレスに託した手紙を届けるため、一人の男が西部から馬を飛ばしてきたのです。ロッキー山脈を越え、コロラド川を渡り、大平原と砂漠を、馬を次々に乗り継いで走り通しました。手紙はナイヤガラ号がニューヨーク港を出る直前、すれすれで間に合います。中身は、咸臨丸の乗組員のうち数人が病気で連れ帰れないので、付添人二人と三〇〇〇ドルを残していく、あとをよろしく頼む、という知らせでした。使節団の側からは一人の病人も出ておらず、ニューヨークを去る一行には、サンフランシスコの病人をアメリカ人によろしく頼むほかに手の打ちようがありませんでした。
典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年(木村鉄太・福島義言『花旗航海日誌』・加藤素毛の記述の引用を含む)