NENPU

幣制交渉、フィラデルフィア造幣局の天秤ばかり事件

小栗の秘命は通貨交換比率の交渉。造幣局で金貨を天秤にかけ、通用価値で比べるべきだと主張して譲りませんでした。

批准書交換という表向きの使命とは別に、小栗にはもう一つ、はっきりした任務がありました。日米間の通貨交換比率の交渉です。使節団での小栗の肩書は目付。アメリカの新聞はこれを「監察官」(censor)と訳しましたが、当初は「スパイ」と訳されて「使節のなかに公然とスパイがいる」と騒がれたこともありました。その「オグロ・ブンゴ・ノカミ」が、フィラデルフィアで日米最初の本格的な為替レート交渉に臨みます。

なぜ交渉が要ったのか ― 金銀比価の落差

当時、日本から金が大量に流出していました。海外では金と銀の比価が一対一五。ところが日本では、江戸初期の一対一四から鎖国のあいだに海外相場と無関係に動き、幕末には一対六になっていました。開国とともに、この落差がそのまま損失に変わります。

ハリスは、日本の一分銀とアメリカの一ドル銀貨を同じ重さで交換すると決めさせました。その結果、一ドル銀貨一枚=一分銀三枚。一分銀三枚は一両小判一枚に替わり、その小判をアメリカへ持ち帰って銀貨に替えると一ドル銀貨三枚になる。持ってきた銀貨が、何の努力もなしに三倍になるのです。

天与の新金鉱を発見したにも等しく …… 黄金を追う熱狂者の群れ

オルコット『在日三年記』(坂本藤良『小栗上野介の生涯』所引)

流出した金貨の量には諸説あり、最低に見積もる説で五〇万両、最高に見積もる説では一〇〇〇万両とされます。千両箱にして一万箱。この状態が続けば日本経済は破産しかねない――そこに正面から立ち向かったのが小栗でした。

サンフランシスコ造幣局の下見

小栗の動きは早いものでした。サンフランシスコ到着の翌日、一八六〇年三月三十日(邦暦三月九日)には日本あてに何通もの手紙を出し、金貨流出の防止を説いています。その四日後、歓迎行事の合間を縫って合衆国造幣局サンフランシスコ分廠を訪れました。益頭駿次郎の日記には、銀貨や銅貨に刻印する機械が一分間に七二個も仕上げるスピードに感心したとあり、勘定組頭・森田清行の『亜行日記』三月十六日付は、所在・貨幣の種類・製造工程まで詳しく書き留めたうえでこう結んでいます。

右宝貨局(貨幣製造工場)凡て人力を費さず、蒸気器械を用ひ、水は革製の(ポンプ)にて、二層三層四層の楼上へひき、火を用ゆるには凡てガスより取る。便利迅速いはん方なし

森田清行『亜行日記』

フィラデルフィア造幣局の天秤ばかり

五月二十二日に国務省で批准書交換を終えると、小栗は儀礼的な訪問や見物をできるだけ正使・新見と副使・村垣にまかせ、通貨問題に取りかかります。五月二十四日(邦暦四月四日)、ワシントンでのカス国務長官との談判を皮切りに交渉が始まり、舞台はフィラデルフィアの造幣局へ移りました。小栗が日本から持参したのは、小判三枚と、一挺の天秤ばかりでした。

日本の監察官、オグロ・ブンゴ・ノカミは、会議がはじまると「天秤ばかり」をとりだした

それを見て、われわれはショックをうけた。わが国では鉄でできている部分が、日本では象牙でつくられている。約一フィートの長さにわたって、精緻な目盛りが刻まれ、皿と錘がついている。実験してみると一分の狂いもない精密さをたもっていた

一八六〇年六月十五日付『ザ・フィラデルフィア・インクワイヤラー』紙ほか

アメリカ側の技師が額に汗して計算しているあいだに、日本側は「アバカス」――五つずつの木製の玉が一五列並んだそろばん――の玉をはじいて一瞬で答えを出し、煙管をくゆらせながら微笑して待っていました。しかも答えは正確無比。新聞は「日本人の重量測定のシステムは十進法であることがわかった。日本人のほうがアメリカ人よりも遙かに合理的、進歩的なのかもしれない」とまで書いています。もっとも坂本藤良氏が注記するとおり、日本の貨幣の単位は一両=四分=一六朱という四進法でしたから、これは買被りでもありました。

安政小判の写真
安政小判(安政六年・1859年)。小栗が造幣局で実際に分析させた、当時の日本の金貨そのもの。出典:江戸東京博物館蔵

日米合同実験

実験の中身は、アメリカのドル金貨と日本の小判に、それぞれどれだけ金が含まれているかを突きとめることでした。当時の新聞は二日目の様子をこう伝えています。

三個の小判が、まずそれぞれ全重量を測定され、ついでそのなかから金が抽出され、最後に、金を抽出したあとの小判の重量が測定された。小判は、三個とも重量がひとしく、金の純度もまた完全に均一であった

実験は予定時間を大幅に超過しました。小栗の要求によるものです。翌日になっても終わらず、アメリカ側はやむなくホテルから造幣局まで食事を運ばせました。食事をとると小栗らはいっそう元気になって、造幣局の一室にこもって一心不乱に実験を続けた――と新聞は半ば呆れ気味に書いています。

使節団の内側は、一枚岩ではありませんでした。小栗の片腕だった財政通の森田清行は、アメリカでの交渉そのものに強硬に反対します。江戸では幕府とハリスの交渉が進んでおり、使節団は幕府から正式の交渉命令を受けていなかったからです。江戸での交渉がハリスの強引さによって不公正な結果を生んでいるからこそ、本国でその事実を訴え、スジのとおった科学的・客観的な交渉をすべきだ――小栗はそう主張し、反対する者たちに言いきりました。

責任は君たちには負わせない。いっさい、自分ひとりが負う

造幣局長の祝宴と、帰りの船の報告書

実験が終わると祝宴が開かれ、合衆国造幣局長ジェイムス・ロス・スノーデンが長い挨拶をしました。これに答えて日本側を代表して立ったのが小栗です。

オグロは、アメリカ合衆国造幣局の職員たちが示したかずかずの好意に感謝の意を示し、そして、日本側としても満足すべき結果がえられたことを喜ぶと述べた。そして、さらに彼は、この合同実験および会議の結論を、帰国しだいただちに日本政府に提出すると言い、その結果、新為替レート・システムが日米両国間に締結されるであろうと言明した

当時のアメリカの新聞(坂本藤良『小栗上野介の生涯』所引)

新聞は「アメリカ合衆国と日本帝国とのあいだの通貨交換・為替レートの決定という、きわめて錯綜した難問の解決こそ、今回の日本使節団の最大目的だったのである」とも記しました。小栗は帰路のナイヤガラ号でも仕事をやめず、四カ月半の船上で、為替交渉と貨幣問題についての長大な報告書をまとめています。

ペリー来航以来、通貨交換比率の話し合い自体は何度かありました。しかし科学的な根拠をもって臨んだ本格的な交渉は、このフィラデルフィア会議をもって嚆矢とする、と坂本藤良氏は書いています。阿部道山氏も、小栗が「内外金銀相場に着目し、我国小判の品位を三倍に昇し、日本の貨幣の海外流出を防ぎたる」ことを、その事業のひとつに数えました。

典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年

→ 米国人が見た「一番できる日本人」 → ニューヨーク大歓迎と「トミー・ポルカ」