JISEKI

造船技術者を育てた企業内教育制度

横須賀製鉄所は、ものを作る技術と、人を育てる仕組みを同時に日本へ持ち込んだ場所でした。

横須賀製鉄所が単なる工場にとどまらなかった理由の一つが、人を育てる仕組みを最初から組み込んでいたことです。設立の基本方針を定めた『製鉄所起立原案』には、工場の建設と並んで、学校の設置が明記されていました。

『起立原案』が定めた学校

原案は、学校の目的をこう定めています(現代語訳)。

日本政府は、将来日本人がフランス人にかわって船廠の業務に当ることができるように教育訓練するために、学校を設立する。そこでは、技師、頭目(職長)になるべき人材を養成する。少年士族から選抜して〈技師生徒〉を置き、通訳部長に授業を分掌させ、フランス語およびエンジニアリングの諸学科を講習させる。……また別に、フランス人の頭目に少年工員を選抜させ、これを〈頭目生徒〉として毎日午前中は工場で各自の作業をおこなわせ、毎日午後、学校に登校させ、図学その他の各科を教育訓練するものとする

午前は工場で働き、午後は教室で学ぶ。坂本藤良氏は、これを「日本における近代的な企業内教育の最初の規定」と評しています。生徒には二つの種類がありました。技師をめざす技術伝習生(技倆伝習生徒)と、職長をめざす職工伝習生(職工生徒)です。後者は慶応二年以降、横須賀近くの農村の少年などから募集されましたが、村民の応募者が少なく、人集めには苦労したようです。

この教育方針の背後には、はっきりした期限がありました。フランス側技術者の最高幹部は「三官」と呼ばれ、主官一人、その介(蒸気を掌る)一人、ドック主官一人、計官(会計担当)一人から成っていました。幕府側の文書は、この三官をすべて日本人が肩代わりできるよう教育せよとし、その達成期限をこう書いています。

一千八百六十九年二月一日、製鉄所の日本職人、すべて仏人の指示を待たず、独力肩任すべし

一八六九年は明治二年にあたります。その日を迎えたとき、幕府はすでに倒れていました。

ヴェルニーの造船学校構想

慶応三年(1867)二月二十日、首長ヴェルニーは幕府に対し、造船学校の組織が「最重要、かつ急速に実行すべきもの」であると提案します。その内容は具体的でした。

  • 入学資格は、横浜のフランス語学所のような学校を終え、フランス語と初歩科目の試験に合格した者

  • 生徒の年齢は十七歳から二十一歳。校外通学でも寄宿でもよいが、寄宿が望ましい

  • 課程は三か年。三年次には簿記を加える

  • 生徒は業務に従事する期間、給与を受ける

  • 卒業に際し、首席・次席の二名は渡欧し、二年間さらに学ぶ

ヴェルニーは、年長四名・若年二名の計六名で直ちに開校できるとし、うち田中弘義・山高信離・河合捨吉の三名には特別訓練をほどこすと述べています。開校の時機を今と見た理由も明快でした。「横浜の仏語伝習所から生徒が卒業するからです」。慶応元年に横浜で開かれたフランス語学所は、こうして造船学校の供給源として機能しました。

慶応二年二月に作られたヴェルニー最初のカリキュラム案(授業時数)は、次のようなものでした。第一年次が数学四六・幾何学四〇・製図学一〇・物理学三〇・地理学一〇・フランス語四六・画学四八。第二年次が数学三〇・幾何学四〇・機械学四〇・物理学二〇・化学二〇・動植物学一五・フランス語二九・画学四八。第三年次が物理および材料強弱学四〇・分体法二〇・化学二〇・そして造船学一二〇。一日の時間割も、午前八時三十分から講義、十時から研究、午後一時から製図、四時三十分まで講義、そこから六時まで自由画学と質問、という密度の高いものでした。日本で最初の理工科系専門学校です。

卒業生たちの行き先

この学校は少数精鋭を通しましたが、卒業生は明治以降、意外なほど広い分野に散っていきました。日本の建艦技術を世界に通用するものにした山口辰弥・辰巳一・若山鉉吉。第一高等学校長となった今村有憐、大審院長となった名村泰蔵。フランスの簿記を学び、日本の会計学の草分けとなった稲垣喜多造。ジュール・ヴェルヌ『新説八十日間世界一周』を明治十一年(1878)に訳し、日本のフランス文学翻訳の第一号となった川島忠之助。そして、パピリオ化粧品本舗の礎を築いた伊東栄。造船所の学校が、造船以外の世界にも人を送り出したことがわかります。

技能者をつなぎとめる工夫

教育と同じくらい難しかったのが、育てた人を引き留めることでした。ヴェルニーは「日本人の職工は、何とか洋式工業技術に熟練してくるとつぎつぎとやめていって、未熟練者ばかり残ってしまう。前途大いに憂うべきだ」と嘆き、対策として給料の増額と、等級を設けて技倆の進んだ者や熱心な者を増給することを小栗らに進言しています。『起立原案』自体にも「職工雇入ノ際務メテ其年期ヲ延長シ屢々新旧更迭ノ弊ナカラシメ」と釘が刺されていました。十時間労働・日曜休日・月給制、そして技能給と年功給という新しい働き方の仕組みは、こうした現実の課題への答えでもあったのです。

教えられたのは技術だけではありませんでした。幕府側の文書には「勘定部は邦士主なるべし」「簿書は邦語、仏語二通に認む」とあり、「三官」のなかに会計担当の計官が含まれていました。坂本藤良氏は、ここから横須賀製鉄所で洋式簿記が導入され、日本人がそれを伝習していたと推定しています。福沢諭吉が洋式簿記を訳すのは明治六年六月のことですから、もしそうなら横須賀は日本で最初にそれを実地に使った場所ということになります。

ちなみに、明治新政府に引き継がれた時点の文書によれば、製鉄所に従事していたのは幕府官吏四四名、水夫火夫四三名、職工生徒二二名、雇フランス人三三名(ほかに横浜製鉄所に一二名)でした。二二名という職工生徒の数が、この教育制度の実体です。

典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/富田仁・西堀昭『横須賀製鉄所の人びと』有隣堂/造船協会編『日本近世造船史』/『横須賀海軍船廠史』

→ 横浜フランス語学所

→ 富岡製糸場への技術伝播