JISEKI

フランス語学所の開校

横須賀製鉄所の運営に必要な人材を育てるため、横浜にフランス語を教える学校が開かれました。

横須賀製鉄所の建設には、フランス人技師団との円滑な意思疎通が欠かせません。設計図も仕様書も、現場のやり取りも、すべてフランス語で動くからです。栗本鋤雲は後年の手記で、この時期の三つの事業を一体のものとして振り返っています。

幕府の最末に当り、横須賀造船所と陸軍伝習所と、仏国語学所との開設の起原は、尽く予が一身に関し、又三項共に相聯りて脈絡接続したれば、一を挙げて二を擱くを得ず(『匏菴遺稿』)

造船所・陸軍伝習所・語学所は、ひとつながりの計画でした。そのうちの語学所が開いたのが、元治二年(慶応元年=1865)三月六日。場所は横浜の弁天社のとなり、いまの中区本町六丁目にあたります。名称はフランス語学所、フランス側の呼び方でコレージュ・フランコ・ジャポネ。小栗と栗本鋤雲、そして浅野美作守氏祐の三人が設けたものでした。

横浜開港場を描いた鳥瞰図
横浜開港場の鳥瞰図。出典:橋本玉蘭斎(五雲亭貞秀)『横浜文庫』1862–65年、国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/2559369)

教員がフランス人であること

語学を教える機関は、江戸時代にもありました。蘭学塾がそれです。フランス語を教える機関も、ごく少数は存在しました。代表的なのは幕府の蕃書調所で、万延元年(1860)にフランス語の研究に着手しています。この機関はのちに洋書調所、開成所、大学南校と名を変え、今日の東京大学の一部となりました。

ただし蕃書調所で教えたのは日本人です。その代表格である村上英俊は、すべて書物で独学したという点に偉さがありましたが、坂本藤良『小栗上野介の生涯』は、そこに限界もあり、とくに発音に大きな欠陥があったと指摘しています。

これに対して横浜のフランス語学所は、教員がフランス人であるという一点で画期的でした。校長には、フランス人宣教師メルメ・カションが招かれます。助手は公使館付武官のシャルル・ビュランに委嘱され、ほかにアンリ・ヴーヴ、レオン・ブラン、フェルナン・プーセ、ルイ・サミーといった教員が採用されました。規模・内容ともに、それまでの語学機関を圧しています。

カションを校長に据えられたのは、栗本鋤雲との縁があったからです。栗本は幕府の奥詰医官でしたが、軍艦・観光丸に試乗したことで上司の怒りにふれ、江戸を追われて箱館に六年勤務しました。そこで出会ったのがジェズイット派のフランス人神父カションです。栗本は彼に日本語を教え、代わりにフランス語を学びました。外国人に日本語を教えるのは栗本にとってもはじめての経験でしたが、二人は人間的に共感しあったといいます。足かけ四年の交流ののち、カションはいったんフランスへ呼び戻されていました。

幕臣の子弟が学ぶ場に

生徒には、幕臣の子弟が選ばれています。小栗の養嗣子である又一(忠道)と、栗本の惣領貞次郎が、ともにこの学校で学びました。大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』も、忠順の嗣子が仏語学校に入学したことを記録しています。ほかに、緒方洪庵の適塾で知られる洪庵の息子・十郎も名を連ねていました。単に語学を教えるだけでなく、次の世代にフランスとの技術的なつながりを引き継がせようという意図が、人選からもうかがえます。

又一忠道は、旗本・駒井甲斐守の子から小栗家に迎えられた養嗣子です。慶応四年(1868)四月三日に用人らを従えて高崎の官軍出張所へ出頭させられ、四月七日、高崎で斬られました。小栗が権田村の烏川河原で斬られた翌日のことです。しかしほかの卒業生は、明治の日本のフランス語研究を担いました。『和仏辞書』を著した田中弘義、『仏和対訳兵語字類』の茂木幸、『和仏字書』を編纂した織田信義、田中旭らの業績は、今日も高く評価されています。

この学校は、横須賀製鉄所の技術者養成とも直結していました。製鉄所内に設けられた学校(黌舎)の規程には、生徒は「横浜のフランス語学所のような学校を終了した後、はじめて入学が許可されます」と定められています。横浜で語学の基礎を固め、横須賀で造船を学ぶ――二段構えの育成の道筋が、開校の時点ですでに描かれていました。

三ヶ月の免職のあいだに

開校した元治二年の前後、幕府はフランスとの関係を急速に深めていました。同年二月には老中・松前伊豆守が江戸の駒場で騎兵の操練を自ら指揮し、五月には将士二万人を整列させて将軍・家茂による閲兵を挙行しています。フランス公使への陸軍教師招聘の依頼も、この松前が文書で行いました。栗本によれば、これらは完璧に極秘裡に進められ、「世間なほ、誰も知るものあらざりき」という状態でした。

この語学所を設立したとき、小栗は免職中でした。そしてわずか三ヶ月で、ふたたび勘定奉行勝手方に復職します。苦しい幕府財政をきりまわせる人間が、ほかにいなかったからです。坂本藤良氏は、この慌ただしさを惜しんで「もし、復職がもっと遅かったら、この学校、いまはあるいは私学の雄のひとつとなっていたかもしれない」と書いています。

典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年(栗本鋤雲『匏菴遺稿』引用)/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年

→ 造船技術者を育てた企業内教育制度 → 栗本鋤雲