JISEKI

富岡製糸場への技術伝播

横須賀で培われた技術と人材が、まったく別の産業である製糸業の近代化を支えました。

横須賀製鉄所で培われた技術と人材は、造船以外の分野にも広がっていきました。その代表例が、世界遺産に登録されている富岡製糸場です。

上州富岡製糸場を描いた錦絵
「上州富岡製糸場」一曜斎国輝画。出典:一曜斎国輝画『上州富岡製糸場』和泉屋市兵衛、1872年、国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/1312610)

横須賀からきた技師と大工

富岡製糸場の木骨レンガ造りの建物群は、横須賀造船所の建設に携わっていたフランス人建築技師たちの手で設計されました。設計を担ったのはバスティアンで、横須賀での建築経験をそのまま活かす形で富岡に派遣されています。図面はフランス語で描かれ、寸法はメートル法が用いられました。当時の日本の在来工法とはまったく異なる、新しい設計・施工の方法です。

建物を実際に組み上げたのは、横須賀で働いていた日本人大工たちでした。十数名が横須賀から富岡へ同行し、フランス人技師の指示のもとで、見慣れない工法の建物を建て上げています。工期はわずか五十日という条件だったと伝わり、横須賀の現場で鍛えられた対応力がなければ実現は難しかったと考えられます。

彼らが横須賀でどのように育てられたかは、製鉄所の教育規程からうかがえます。そこでは少年士族から選抜した〈技師生徒〉にフランス語とエンジニアリングの諸学科を講習させ、フランス人の頭目が選んだ少年工員を〈頭目生徒〉として、午前は工場で作業させ、午後は学校で図学その他を学ばせる、と定められていました。特定の製品を作る技能ではなく、洋式建築・洋式機械に共通する作法を身につけさせる仕組みです。だからこそ、造船とはまったく異なる製糸工場の現場でも、そのまま働くことができました。

働き方の仕組みも一緒に

富岡製糸場では、横須賀と同じく定時労働・日曜休日・月給制・年功給・技能給といった働き方の仕組みも導入されました。建物や機械だけでなく、近代的な工場運営のしくみそのものが、横須賀から富岡へと持ち込まれたのです。

幕府が握ろうとした生糸

富岡に官営の製糸場が置かれた背景には、幕末以来の生糸という商品の重さがあります。安政六年(1859)の開港以来、生糸は日本最大の輸出品となり、横浜からの輸出は急速に伸びていました。その利益の大半を外国商館が押さえている状態を、小栗は変えようとします。

幕府はそれまで、江戸の問屋を通じて横浜売込商人を統制しようとして、うまくいきませんでした。小栗は発想を変え、横浜売込商人そのものを認めて自主性を与え、彼ら自身を通じて貿易を管理する方向に切り替えます。

  • 慶応元年(1865)五月――横浜売込商人のなかから選んで、繭・蚕種の輸出の特権を与えた。

  • 慶応二年(1866)正月――生糸・蚕種改印令を公布。江戸問屋による横浜廻送生糸の検査を廃し、生産地で改印させることとした。

  • 慶応二年~三年――横浜の生糸売込商人に組合仲間を形成するよう指導。売込商人が自主的に貿易を規制し、外国商館との対抗力を強めていった。

小栗は、生糸をフランス向けの国家的な輸出品にしようとしていました。元治二年(1865)二月九日、イギリスとオランダの公使が老中・水野忠精、若年寄・酒井忠毗に会見を申しこみ、「船艦、武器購入のため、欧州の一市場に生糸の大量輸出をおこなう計画があると聞くが、事実であるか」と詰問しています。老中らは、購入代金を「日本国内の余剰の物産を以て支払いにあてねばならないことも、当然のこと」だとはねつけました。

『倉渕村誌』が引く海音寺潮五郎『小栗上野介』によれば、小栗はロッシュ着任後、日本の生糸を幕府で統制して一手にフランスへ輸出する生糸専売案を考えましたが、アメリカ・イギリス・オランダの抗議によって実現しませんでした。大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』も、慶応三年(1867)七月の条に、ロッシュと謀ってパリに会社を創立し、欧州における幕府の代理としてパリ万国博覧会に出品、とくに生糸を専売して武器を購入する計画だった、と記しています。

幕府が生糸を国の基幹輸出品として押さえようとした構想は、慶応四年の崩壊とともに消えます。しかし生糸を外貨獲得の柱とする考えも、横須賀で育った技師と大工も、明治政府にそのまま引き継がれました。富岡という上州の地に官営の模範工場が建ったとき、その二つが合流しました。

典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/大坪元治『小栗上野介忠順家系及略年譜』小栗公顕彰会、昭和三十二年/『倉渕村誌』

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