兵庫商社に先立つこと二年近く、慶応元年(1865)八月、勘定奉行・小栗上野介の名で「商社組織の伺書」が幕閣に提出されました。日本とフランスがそれぞれ大会社を設立し、両者が直接結びついて貿易にあたる――のちに「日仏組合商法」と呼ばれる構想です。実現はしませんでしたが、その発想の起点と規模は、兵庫商社を理解するうえで欠かせません。
前史 ― 「国益会所」
構想の出発点は、遣米使節から帰国した翌年、文久元年(1861)にさかのぼります。安政六年の開港以来、生糸・茶・海産物の輸出額は激増していましたが、その利益は外国商人にほぼ独占されていました。外国商人は「横浜売込商人」と呼ばれる資本の薄い日本商人をはじめ高値で釣り、商品が横浜に集まったところで買い控える。困窮した日本商人は投げ売りをする。やがて外国商人は彼らに前貸しをするようになり、日本商人は完全に従属していきました。イギリス公使オールコックですら自国商人の非道ぶりを嘆いたほどです。
これを正面から止めようとしたのが、小栗の「国益会所」構想でした。江戸と大坂に会所を設け、出入する商品を一手に管理する。一品につき一人の商人を「惣代肝煎」として会所に詰めさせる。一品ごとに入札場をつくり、買人を集めて入札させる。さらに産地の生産者に資金を貸し付ける――という四本柱です。
しかしこれは、開港場における〈外国人勝手売買〉の特権を一挙に奪うものでした。構想を知った外国商人は猛烈な反対運動を展開し、外交ルートからもクレームがつきます。強行すれば重大な外交問題になる。小栗はこの計画の全面実施を断念せざるを得ませんでした。
「日仏組合商法」の中身
その延長線上に出てきたのが、日仏組合商法です。計画はまずイギリス側に察知されました。元治二年(1865)二月の英字紙 The London China Express が、フランスが日本との貿易を目的に商社を設立する計画があると報じます。同じ元治二年二月九日には、イギリス・オランダ両公使が老中・水野忠精、若年寄・酒井忠毗に会見を申し込み、「船艦、武器購入のため、欧州の一市場に生糸の大量輸出をおこなう計画があると聞くが、事実であるか」と鋭く詰問してきました。老中らは、どの国と契約を結ぶかは日本政府の決定すべきことであり、支払いに国内の余剰物産を充てるのも当然だ、とはねつけています。
慶応元年八月、伺書が提出されます。その冒頭はこう始まります。
「此程、御用に而、上野介横浜表ェ出張之節、仏蘭西公使より組合商法相立候は……」
内容は、横行している密貿易をやめさせ、外国商人が独占している貿易利益を日本の手に取りもどし、貿易管理と税関事務を整頓するために一大商社を設立する、というもの。具体的には、日本側が「商業・航海大会社」を設立してその代表をパリに駐在させ、フランス側の「フランス輸出入会社」の代表を横浜に置き、時々刻々の相場によって双方で物資を売買する。設立資金はそれぞれの国の商人から出資させる――という形です。フランス側でこの計画に尽力したのは、パリの大銀行家フリュリー・エラールでした。
当初は日仏両国の商人が共同参加する「交易組合」という案だったものが、しだいに、両国がそれぞれ大会社を設立して互いに取引する形へと変わっていったこともわかっています。この伺書に対する幕府の指令は、今日まで発見されていません。
翌慶応二年(1866)、フランス実業人の代表としてクーレーという人物が横浜に来ます。小栗はこれと交渉して結論に達し、ロッシュ公使は1866年10月31日付(邦暦九月二十三日)の報告書で、小栗がクーレーとの契約案を将軍に示すため大坂へ行ったこと、フランスの会社と取引を結ぶ日本の商業・運輸の大会社の創立計画が大君に説明されることになったことを記しています。将軍に示された計画の具体的内容を記した史料は、見つかっていません。
勝海舟に打ち明けた「機密」
第二次長州征討のさなか、慶応二年五月、勝海舟は軍艦奉行に再任され、大坂への出張を命じられます。その出発前日、小栗は勝を訪ね、この計画を打ち明けました。勝は後年『氷川清話』にこう書いています。
「小栗がひそかにおれに言うには、君が今度西上するのは、必ず長州談判に関する用向きだろう。もし然らば、実は我々にかようの計画があるが、君も定めて同感だろう。ゆえに、敢てこの機密を話すのだと言った」
その場では「ただ唯々たる而已」と一言も反論しなかった勝ですが、大坂に着くと老中たちに猛烈な小栗批判を展開します。この段階で話は、小栗が「日本の国土を担保にして」フランスから金を借りようとしている、という形に変わってしまいました。『海舟日誌』には「国(の)財宝空費し尽るを以て、地を質して、払郎西より……金幣を借る」とあります。
この「担保」の話は、明治・大正・昭和を通じて広く信じられてきました。しかし東京大学史料編纂所の大塚武松氏『幕末外交史の研究』などの研究により、少なくとも小栗の交渉に関するかぎり担保の話は皆無であり、他に密約もなかったことが明らかにされています。慶応二年夏の段階で、小栗とクーレーとの借款契約に抵当はまったく入っていません。しかも借款交渉は英仏に公平に六〇〇万ドルずつ行われており、フランスからの分も、六〇〇万ドルのうち一〇〇万ドルはイギリスのオリエンタル・バンクから、五〇〇万ドルはフランスのソシエテ・ジェネラールとオリエンタル・バンクの共同出資という形をとることになっていました。
構想はどこへ行ったか
外国資本と組む大構想がついに指令を得られないまま、慶応三年、小栗は国内商人の資本で兵庫商社を立ち上げます。外国の力を借りるか、国内で完結させるか。この二つのあいだを行き来しながら、幕府の財政運営は最後の局面を迎えていきました。
皮肉なことに、国益会所の構想を全国規模で最初に実行したのは、坂本龍馬の推薦で官軍の財政を預かることになった三岡八郎(由利公正)でした。由利の方式が外国商社を刺激し、抗議を受けた大隈重信がそれを逆用して由利を追い払い、自ら大蔵省の実権を握りました。それでも、明治十四年に大蔵卿となった松方正義の財政もその根本は由利方式を受け継ぐものとされ、そこからさらにさかのぼれば、明治期財政政策の原点は小栗の構想にあった、ということになります。
同じころ、小栗はもう一つ、外国資本に頼る大きな計画を進めていました。→ 幻の600万ドル借款
典拠:坂本藤良『「兵庫商社」を創った最後の幕臣 小栗上野介の生涯』講談社、1987年