JISEKI

幻の600万ドル借款

六百万ドルの外債交渉は、まとまらないまま終わりました。この一件をめぐる、もう一つの見方も。

幕末、小栗は六〇〇万ドルという巨額の借款交渉を進めていました。横須賀製鉄所の建設、陸海軍の改革、そして貿易の立て直し――財政に苦しむ幕府にとって、外国からの資金はこれらを一気に動かす梃子になるはずのものでした。しかし、この借款は成立しないまま幕府とともに消えます。そして小栗の死後、この「幻の六〇〇万ドル」は、彼を売国奴と呼ぶための材料として長く使われることになりました。

発端は借金ではなく、商社の構想だった

話の出発点は、金を借りることではありませんでした。慶応元年(一八六五年)八月、勘定奉行・小栗上野介の名で幕府に提出された商社組織の伺書は、こう書き起こされています。

此程、御用に而、上野介横浜表ェ出張之節、仏蘭西公使より組合商法相立候は ……

その中身は、横行している密貿易をやめさせ、外国商人が独占している貿易の利益を日本の手に取りもどし、貿易管理と税関事務を整頓するために一大商社を設立する、というものでした。具体的には、日本側が「商業・航海大会社」を設立して代表をパリに駐在させ、フランス側の「フランス輸出入会社」の代表を横浜に置き、時々刻々の相場によって双方で物産を売買する。設立資金はそれぞれの国の商人から出資させる――。フランス側でこの計画に尽力したのは、パリの大銀行家フリュリー・エラールでした。

慶応二年(一八六六年)、フランス実業人の代表としてクーレーが横浜に来ます。小栗はこれと交渉して結論に達しました。ロッシュ公使は一八六六年十月三十一日付(邦暦九月二十三日)の報告書に、小栗上野介がクーレーとの契約案を将軍に示すために大坂へ行ったこと、フランスの会社と取引を結ぶ日本の商業・運輸の大会社の創立計画が将軍に説明されることになったことを記しています。

六〇〇万ドルの内訳

借款の交渉は、フランスだけを相手にしたものではありませんでした。英仏に公平に六〇〇万ドルずつおこなわれています。しかもフランスからの六〇〇万ドルという借入れも、内訳を見ると、一〇〇万ドルはイギリスのオリエンタル・バンクから、残る五〇〇万ドルはフランスのソシェテ・ジェネラールとオリエンタル・バンクの共同出資、という形をとることになっていました。陸海軍の伝習についても、小栗は英仏のバランスを保つことに十分な配慮をしています。

イギリスは、この動きを警戒しました。代理公使ウィンチェスターはオランダ総領事ファン・ポルスブルックとともに老中に会見を申し込み、「船艦、武器購入のため、欧州の一市場に生糸の大量輸出をおこなう計画があると聞くが、事実であるか」と鋭く詰問してきます。老中らは、欧州のどの国と契約を結ぼうとそれは日本政府の決定すべきことであり、支払いに国内の余剰の物産をあてるのも当然のことだ、とはねつけました。のちに公使となるパークスも、カネもないのにそんな大製鉄所ができるものか、やるならイギリスは妨害するぞ、と迫っています。

「国土を担保にした」という話

小栗の名誉にもっとも関わるのが、この借款に担保が入っていたかどうかという問題です。明治・大正・昭和を通じて広く信じられてきたのは、小栗が日本の国土を担保にしてフランスから金を借りようとした、という話でした。言い出したのは勝海舟です。

慶応三年の十二月に、仏国から破談の報せが来た。後で仏蘭西公使がおれに、小栗さんほどの人物が、僅か六百万両ぐらいの破談で腰を抜かすとは、さても驚き入った事だといったのを見ても、この時、小栗がどれほど失望したかは知れるヨ。小栗は、僅か六百万両のために徳川の天下を賭けようとしたのだ

勝海舟『氷川清話』

坂本藤良氏は、これを誤解であるとはっきり書いています。少なくとも慶応二年夏の段階で成立した小栗とクーレーの借款契約には、抵当はまったく入っていません。東京大学史料編纂所の大塚武松『幕末外交史の研究』、石井孝『明治維新の舞台裏』がそれを明らかにしており、後者は「クーレーと小栗との間で成立をみた借款契約には、なんらの抵当も入れてなかった」と記しています。

担保らしい話がまったく無かったわけではありません。慶応三年(一八六七年)六月の段階で、蝦夷地の開発による収入、あるいは開発権や炭坑の採掘権を担保に、という話が、老中(外国事務総裁)小笠原長行から栗本鋤雲への指示にはあったらしいことを、マリウス・ジャンセン『坂本龍馬と明治維新』が伝えています。鋤雲はそれを含めての借款交渉でフランスに渡りましたが、正式に論議もされないうちに幕府倒壊の報に接しました。小栗の交渉とは別の段階の話です。

「フランスの危険」という宣伝

パークスと薩長は「フランスの危険」を大げさに言い立てました。しかしその危険は、ジャンセンも指摘するとおり、まったく問題にならないものでした。当時のフランスに日本を侵略するほどの力はなく、サイゴンから輸送できる陸兵もせいぜい二〇〇名です。小栗はこうした事情を知っていました。フランスが欲しかったのは貿易による利益であり、領土的野心ということで言えば、むしろ第一にロシア、第二にイギリスを警戒すべきでした。坂本藤良氏は、「小栗はフランスから六〇〇万ドル借りるために、日本の植民地化の危険をおかした」という批判は、はっきりと返上しなければならない、と書いています。

借款は実現せず、幕府は限られた財源のなかで横須賀製鉄所や兵庫商社といった事業を進めていきます。勝は明治もよほどあとになってから、小栗を「三河武士の長所と短所とを両方具えておった」「度量が狭かったのは、あの人のために惜しかった」と語りました。その語りが、長いあいだ小栗のイメージを固定させたのです。

典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年(大塚武松『幕末外交史の研究』、石井孝『明治維新の舞台裏』、マリウス・ジャンセン『坂本龍馬と明治維新』、勝海舟『氷川清話』を所引)

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