小栗が遣米使節で持ち帰ったものは、造船所の設計図だけではありません。出資を募って事業を起こし、利益を出資者に配当するという仕組み――いまでいう株式会社の考え方を、日本に持ち込んだのも小栗でした。
それが形になったものが二つあります。日本最初の株式会社「兵庫商社」と、日本人による最初の本格的な洋式ホテル「築地ホテル館」です。
日本最初の株式会社「兵庫商社」
慶応三年(1867)、兵庫開港を前に、小栗は幕府に「商人組合(コムペニー)」の設立を建議しました。日本の商人は小資本でばらばらに動いているから、大資本の外国商社に一人ずつ買い叩かれ、日本人同士の安売り競争に追い込まれてしまう。これは商人個々の損得では終わらず、国の損得の問題になる――という趣旨です。
提案の中身は、大坂の商人二十人ほどに資本を出させて組合を作り、役員と定款を定め、加入したい者は一株いくらで誰でも入れるようにするというものでした。そしてその利益で、ガス灯・郵便・電信を設け、江戸―横浜間に鉄道を敷く。株式会社によって社会基盤を整えるところまで見通した構想です。
慶応三年六月五日、幕府は大坂の富商二十名を京都に呼び出して結成を命じ、大坂中之島に事務所を置いて活動が始まりました。しかし大政奉還、鳥羽伏見の敗戦、幕府の解散と続き、本格的に動き出す前に半年ほどで解散しています。
「前貸し支配」に対抗する
小栗が問題にしていたのは、外国商人の前貸し支配という商法でした。
最初は日本の産品を高く買う。喜んだ日本商人がもっと買い付けてくると、「もう品が余っている」と言って買い渋り、安く叩く。資本力の弱い日本人同士が安売り競争に追い込まれたところで、資金を前貸しして、しだいに意のままに操れるようにする――植民地支配に慣れた欧米の商人にとっては当然の手口です。
ばらばらの小資本では、この構造から抜けられない。だから組合を作って資本をまとめる。小栗の建議は、そういう認識から出ています。
その先に見ていたもの
兵庫商社の建議には、利益の使いみちまで書かれていました。ガス灯、書信館(=郵便)、電信、そして江戸―横浜間の鉄道。株式会社の利益で社会基盤を整えるところまで見通した構想です。
これらはすべて、明治になって別の手で実現しました。大隈重信が「明治の近代化はほとんど小栗上野介の構想の模倣に過ぎない」と語ったと伝えられるのは、こうした一致を指しています。
築地ホテル館 ― 株式会社方式で建てたホテル
五か国条約により、江戸には外国人の居留地と宿泊施設を設けることが約束されていました。イギリス公使パークスの求めを受けた小栗は、幕府の財政が苦しいことから、民間資本を株式で集めて建てる方式を考えます。土地は無償で貸す、建てた者が経営して利益を得てよい、という条件を内々に示し、請負人の清水喜助がこれに応じました。
規模と内容は幕府の指示どおりにするという条件がつきました。これは、遣米使節でワシントンのウィラードホテルやニューヨークのホテルメトロポリタンに泊まった体験から来ています。水洗トイレ、シャワー、バー、ビリヤード室を備えた建物には、完成後、見物人が押し寄せたといいます。
出資を募って建て、利益を配当する。パナマで見た鉄道会社の経営手法が、そのまま持ち込まれていました。
もっと詳しく
小栗の経済構想は、兵庫商社と築地ホテル館だけではありません。幻に終わった中央集権的な為替所の建議から、三井を支えた三野村利左衛門との縁、日本初の兌換紙幣、そして実現しなかった日仏合弁商社や借款交渉、新聞・火薬工場の構想まで、関連する十本の記事にまとめました。
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全国の遠国奉行・郡代・代官に金銀為替を扱わせ、幕府財源にしようとした中央集権的な為替所構想。両替商の反対で実現しませんでした。
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無学文盲ながら人物眼のある大男が、小栗屋敷に出入りする「渡り仲間」から三井御用所の責任者に抜擢されるまで。
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慶応二年、三野村利左衛門が主導した大名貸し回収策が三井の御用金危機を救います。その背後にあった小栗の後ろ盾。
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慶応三年八月発行の「江戸横浜通用札」。三井御用所が発行実務を担った、日本最初の兌換紙幣です。
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役員構成・出資と配当の仕組み、そして薩摩・五代友厚らに与えた衝撃まで、兵庫商社の中身を詳しく見ていきます。
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同じ慶応三年四月、幕府側の小栗と土佐・薩摩側の坂本龍馬が、それぞれ異なる形で組織された資本による事業を立ち上げていました。
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兵庫商社に先立つ慶応元年、フランスとの合弁による商業・航海の大会社「日仏組合商法」を幕閣に提出していました。
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英仏との六百万ドル外債交渉はまとまらず終わりました。勝海舟による「武器調達策」という見方も中立的に紹介します。
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福澤諭吉に新聞を発行させる構想を幕閣に提出しましたが却下されました。後年、栗本鋤雲がこの路線を継いだと伝わります。
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武田斐三郎、澤太郎左衛門との共同で、東京・瀧野川に日本初の洋式火薬製造所を計画していたという記録があります。