JISEKI

坂本龍馬の海援隊との対比

同じ慶応三年四月。立場は正反対でも、よく似た発想にたどり着いていた二人がいました。

慶応三年(1867)四月、小栗は兵庫商社の創立を建議しました。建議書の表題は「兵庫御開港に付、商社取建て方並御用途金見込之儀、申上候書付」といいます。同じ慶応三年四月、土佐の坂本龍馬は海援隊を組織しています。幕府側と反幕府側の双方から、「組織された資本」による事業体が生まれたのは、まったく同じ月でした。

「コンペニー」という言葉

小栗は建議書のなかで、外国商人が前貸資本によって産地まで押さえてしまう現状を、こう嘆いています。

右は、商人一己の損失ばかりの様に相見え候えども……すなわち御国の損失に相成り、ついに全国の利権を失し、外国商人のために蔑視され、西洋商人のために東洋において貨殖の地を与る儀にて、実に歎息の次第にござ候

これに対抗する手段として小栗が挙げたのが、大資本の会社でした。建議書には「外国交易の商社(コンペニー)の法に基き申さず候ては、とても盛大の貿易と御国の利益に相成り申すまじく」とあります。坂本藤良氏は、「コンペニー」という語が日本の公文書に現れたのは、おそらくこれが最初であるとし、小栗よりやや遅れて海援隊の陸奥宗光が同じ語を使っていることを指摘しています。当時この語は単なる「会社」ではなく、貿易と金融を兼ねる組織を指していました。

建議書はさらに、この商社の利益をもってガス灯(気灯)と郵便局(信書ポストオフィス)を設けることまで提案しています。『徳川慶喜公伝』はここに鉄道の敷設も含めて紹介していますが、建議書そのものにはガス灯と郵便局までしか書かれていません。

海援隊と薩摩に走った衝撃

慶応三年六月五日、兵庫商社は正式に発足します。一見すると地味なこの出来事は、反幕府側に大きな衝撃を与えました。坂本藤良氏は、特別に重要な事項しか記録しない『海援隊日史』が、この兵庫商社設立を詳しく書き留めている点に、その衝撃の大きさを読み取っています。

薩摩側の動きも激しいものでした。五代友厚らは「薩摩商社」の設立をもって兵庫商社に対抗しようとし、西郷隆盛はイギリス公使パークスに「兵庫商社はイギリスの貿易利潤を失わせることになる」と説いています。けしかけられたパークスが老中を威猛高に怒鳴りつけ、兵庫商社に反対するという一幕まで生じました。

しかし結果を見れば、海援隊の組織変更も薩摩商社の設立計画も進まず、兵庫商社だけが着々と進行しました。六月十四日には大坂の富商を集め、小栗の意を体した嘉納次郎作が演説して出資を勧めています。そこで示された原則は、「武士、町人、百姓の差別なく、有余の金を以て右の商社へ加入せしむべき見込にて、利益は出資額に応じて之を配当し」というものでした。出資者が急に金を必要とする場合の払戻しも認められています。身分にかかわらず出資を募り、出資額に応じて配当するという仕組みは、株式会社の要件にかなり近いものでした。

役員も順に加えられました。九月六日には大坂の大眉五兵衛(天王寺屋)が頭取助、鴻池屋新十郎・天王寺屋忠兵衛・住友吉左衛門ら六名が世話役助となり、十月には兵庫の北風荘右衛門が肝煎に加わっています。事務所は〈商社会所〉と呼ばれ、大坂の中之島に置かれました。

二つの組織のその後

龍馬は、慶応三年十一月十五日、中岡慎太郎とともに刺客の刃に斃れます。三十三歳でした。兵庫商社のほうも長くは続きません。兵庫は十二月七日に開港しましたが、翌慶応四年正月の鳥羽伏見の戦いで幕軍が敗走し、開港後の業務はわずか二十日ほどで終わりました。創立から解散までおよそ半年です。その半年の実績は、開港準備のための米七千石と現金一万三九八三両余の管理、役員が立て替えた開港費用五万二一五〇両の管理、そして金札の発行でした。金札は百両・五十両・十両・一両・二分・一分の六種で総額十万両が製造され、十一月二十二日に第一回分の一万両が発行されています。

坂本藤良氏は、日本の株式会社生成史に二つの系譜を見ます。小栗の兵庫商社と、龍馬の海援隊です。龍馬の系譜の源流にあたるのが、土佐の文人・河田小龍を通じて龍馬にアメリカの知識を伝えたジョン万次郎でした。その知識が亀山社中、海援隊、五代らと構想した「馬関商社」へとつながっていきます。

ただし坂本氏の評価は、両者を対等に並べるものではありません。龍馬は株式会社の存在を知りながら、それを自分の商社活動に十分取り入れないまま逝ったと氏は書いています。あと数か月生きていれば、陸奥宗光を参謀として海援隊を株式会社に改組していたかもしれず、あるいは五代らと「一万両出資」の会社を新たに設立し、"世界の海援隊" を出現させていた可能性もあった――そう惜しんだうえで、兵庫商社を「初期の株式会社のひとつ、または日本の株式会社の原型」と位置づけ、海援隊はそれに対抗する存在として置くべきだ、としています。

兵庫商社の構想そのものは、幕府とともに消えたわけではありませんでした。明治に入り、三野村利左衛門と渋沢栄一の手で「通商会社」「為替会社」に引き継がれます。前者は貿易を、後者は金融を業としており、「コンペニー」の二つの側面がそれぞれ形を得ました。

なお、龍馬とともに海援隊を運営し、のちに三菱を興した岩崎弥太郎が、江戸に出て学んだ安積艮斎の塾は、小栗屋敷のなかにありました。対立する陣営の人物が、思いがけないところで同じ場所を通っているのも、この時代の面白さです。

典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/菅野和太郎『日本会社企業発生史の研究』岩波書店/渋沢栄一『徳川慶喜公伝』

→ 兵庫商社 ― 日本最初の株式会社

→ 三野村利左衛門と三井

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