JISEKI

三野村利左衛門との出会い

無学文盲だが、人物を見る目だけは並外れていた大男。小栗屋敷に出入りしていた一人の渡り仲間の話です。

三井の大番頭として明治の経済界に立った三野村利左衛門は、もとは神田駿河台の小栗屋敷に住み込んだ一人の奉公人でした。無学文盲の大男だったと、複数の記録が口をそろえます。その男をどこで見つけ、どう見ていたのか――ここでは出会いそのものに絞って追います。

出羽の浪人の子、孤児、そして放浪

坂本藤良氏は、三野村の前半生をこう記しています。父は出羽国の浪人で木村某といい、のち江戸に出た。三野村自身は文政四年(一八二一年)十一月、江戸の生まれで、小栗より六歳年上にあたります。極貧のうちに大坂、九州を転々とし、天保五年(一八三四年)に孤児となって放浪、同一〇年に江戸へもどりました。

江戸では深川の干鰯問屋・丸屋に奉公し、主人の縁筋にあたる金座後藤の口ききで、神田駿河台の小栗の屋敷に住込仲間として入ります。下町からは御用聞き、物売り、職人、渡り仲間といった人びとが日々屋敷に出入りしており、彼もそのひとりでした。

屋敷で小栗に目をかけられた彼は、小栗の仲介で三河町の油・砂糖商、紀ノ国屋の婿養子に入り、美野川利八と名乗ります。金平糖の行商をしながら、持前の経済感覚で小銭両替業が儲かると見抜き、小石川伝通院前の伊勢屋の株を買って開業しました。嘉永五年(一八五二年)、一説には安政二年(一八五五年)のことです。そのころから日本橋駿河町の三井組に出入りするようになり、「紀ノ利」の通称で呼ばれました。

「其人物が小栗の眼識に留り」

小栗が彼のどこを見たのかを、もっとも直截に書き残しているのは蜷川新です。『維新前後の政争と小栗上野介』の一節が、阿部道山氏の著書に引かれています。

「三野村利左衛門と云ふ人があつた、膽氣才幹人に優れてゐたが、不遇にして志を得ず、油を小売して貧しき生活を立てて居つた、此人小栗家に出入しつつある間に、其人物が小栗の眼識に留り、上野介は此人を小栗家の用人となした」

出会いの場面については、油の行商の道すじで知り合ったとする伝えと、屋敷の住込仲間から始まったとする伝えがあり、細部は一致しません。共通しているのは、身分でも学問でもなく、胆力と算盤の勘を見て取られたという点です。阿部道山氏は、三野村の理財の基礎は「この小栗家用人時代の短期間内に習得した」と書いています。

のちに三井へ迎えられたとき、彼は自分で苗字を組み立てました。三井の「三」、養父の姓である美野川の「野」、実父の姓である木村の「村」――これを継いで「三野村」。名は三井の番頭らしく「利左衛門」としました。名前そのものが、拾われて世に出た経歴の記録になっているわけです。

日記に残る「三野村理左衛門来リ」

現存する『小栗日記』は慶応三年(一八六七年)正月から最期までの分です。そこに三野村がはじめて姿をあらわすのは、慶応三年二月十六日。その日の記述は全部でわずか三行しかなく、その一行がこう記されています。

「一、三野村理左衛門来リ、逢申候」

それから約半年間、三野村の名は日記に出てきません。ところが八月以降、頻繁にあらわれるようになります。ちょうど、三井御用所による江戸横浜通用札の発行や兵庫商社の設立が動き出す時期です。屋敷に出入りする奉公人だった男が、勘定奉行の日々の面会相手になっていました。

三野村から見た小栗

関係の形をもっともよく伝えるのは、慶応四年正月の場面です。小栗が駿河台の屋敷を引き払い、旧知行所である上州権田へ退くと決めたことを知った三野村は、駿河台の邸へ駆けつけ、金一千両を差し出しました。いまは時機ではない、これを持ってしばらく米国へ渡られたい、必ずお迎えする時が来る――そう説いたと伝えられます。小栗は毅然としてこの厚意を退けました。間もなく二人は西と東とに分かれます。

三野村はのちに、人に向かってこう言っていたと伝わります。

「若し先主小栗をして今日にあらしめ、財政の要路に立たしめたならば、国家の財政を利益したること測り知るべからざるものがあつたであらう。余の為す所の如きは、先主より之を見れば、児戯に過ぎざるのみ」

三井銀行を興し、明治の日本を代表する理財家となってなお、彼は自分の仕事を「児戯」と呼びました。その三野村が創立した三井物産の初代社長・益田孝は、小栗の創設した日本最初の株式会社「兵庫商社」に学んだ商社の初代を務め、しかも青年時代に、遣米使節の「トミー」こと立石斧次郎から英語を習っています。

この出会いが三井にとって何をもたらしたかは、別の記事で扱いました。→ 三井を救った男の大出世 → 日本初の兌換紙幣、江戸横浜通用札

典拠:坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社、1987年/阿部道山『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会、1941年(蜷川新『維新前後の政争と小栗上野介』引用を含む)/『小栗日記』群馬県史料集第七巻